なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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五十子城(いかっこ)は五十子陣とも呼ばれ、中山道沿いにありました。
訪問日は2012年5月19日です。

五十子城/中山道沿いの比定地
▲比定地

五十子陣は、山内上杉氏と古河公方が戦った際の上杉方の陣地跡です。
特にこれといった遺構はありませんが、写真の場所辺りにあったとされます。
歴史上かなり大きな戦だったと思われますが・・・石碑や説明板の類は見当たりませんでした。

五十子城/比定地周辺の微高地
▲比定地の裏にある微高地

さっぱり何もありませんでした、ではつまらないので周囲を散策。
すると、お店の裏にちょっとだけ周囲より高いかな?という場所がありました。
そこは公園になっていて、象さんが居ました!
危険なので登ってはいけないそうです・・・・

五十子城/その裏の川
▲比定地の裏にある川

更に裏に向かうと、中山道と並行して川が流れていました。
周囲を川に囲まれている東にせり出した台地。
野戦で陣を構えるにはとてもよい場所ですね^^


◆歴史(前置きが長いですw)◆

五十子陣は、1457~58年頃に山内上杉房顕により築かれました。
以後約20年に渡って古河公方との戦が続きます。
まずはその背景から。

1455年、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・山内上杉憲忠を暗殺したことに起因します。
それはなぜかと言いますと・・・
根は一世代前の足利持氏と室町幕府の対立にまで遡ります。

1428年、4代将軍・足利義持が没しました。
義持の子は5代将軍も含め既に全員夭折しており、誰が将軍を継ぐのかで揉めていました。
その解決策が・・・なんとクジ引きだったのです。
そのクジを引いたのは、前将軍・足利義持の弟4人でした。

鎌倉公方・足利持氏は義持の養嗣子であり、家督及び将軍職を継ぐのが当然の状況でした。
にも関わらず、クジすら引けなかった事に腹を立て、以後、事ある毎に幕府と対立しました。

この状況を憂慮したのが関東管領・山内上杉憲実でした。
憲実は持氏が問題を起こすたびに、室町幕府から主を庇い続けていました。
しかし、持氏はそんな憲実を次第に疎ましく思うようになりました。

・・・長くなりそうなので更にザックリ・・・

1438年、持氏の嫡子・賢王丸が元服を迎えました。
慣例では将軍から一字拝領していましたが、持氏はそれを行わず「義久」と名付けました。
もう庇いきれないと諦めた関東管領・上杉憲実は、領国である上野国に引き上げました。
これを謀反と決め付けた持氏は、憲実追討の兵を挙げました。

憲実より援軍を求められた室町幕府は、持氏追討の軍を派遣しました。
1439年、持氏は降伏し、鎌倉の永安寺に幽閉されました。
憲実は何度も持氏の助命嘆願を願い出ましたが許されず、逆に持氏を討つよう命じられました。
不本意ながら主を討たざるを得なかった憲実は、関東管領を辞して流浪の旅に出たのでした。

しかし、当時4歳だったと推定される持氏の子・成氏は、幕府と関東管領家を恨みました。
1449年に成氏が鎌倉公方に就任すると、関東管領・上杉憲忠とは当初から犬猿の仲でした。
そして1455年、ついに成氏は憲忠を鎌倉で暗殺してしまいました。

・・・やっぱり前置きが長くなりましたあせる・・・

ここから鎌倉公方と上杉氏が戦った享徳の乱が始まります。
これだけの大事件を起こしたので、室町幕府も黙っていません。
成氏追討の軍を差し向け、鎌倉を占領して成氏を追放しました。

しかし成氏は古河に移り、古河公方を名乗るようになりました。
関東管領は上杉憲忠の弟・房顕が継ぎました。
以後、関東管領・上杉氏と古河公方とが関東を二分して戦い続けます。
その最前線が利根川沿いにあった五十子の地でした。

1466年、上杉房顕が五十子陣で没しました。
討死ではなく病没です。
享年32って若いですね・・・
3年前に右腕として活躍していた長尾景仲が没した時に辞めたがっていましたが・・・
幕府に許されず、仕方なく戦を続けていたんですね。
房顕の跡は、越後守護・上杉房定の次男で従兄弟の上杉顕定が継ぎました。

1473年には山内上杉氏の家宰・長尾景信が没しました。
ここからまた更なる泥沼が始まります。

長尾景信の後、家督は嫡男の長尾景春が継ぎました。
しかし、家宰職は景信の弟・長尾忠景が継ぎました。
みんな名前が似ていて混乱してきますが・・・

山内上杉氏の家宰職は代々白井長尾家が継いできました。
勢力拡大を恐れた山内上杉顕定は、権力を奪うことで優位を保とうとしたのです。

景春はこれにはかなり不満だったようで・・・
この直後から、従兄弟の太田道灌には何度も不満を漏らしていました。

1475年、長尾景春は鉢形城で反旗を翻しました。
太田道灌は景春を諌めたり主家から庇ったりしていましたが、、、相当怒っていたようですね。
景春の人望は既に主家を遥かに凌いでいたようで、各地で乱に同調する者が続出しました。

そして1477年、長尾景春は古河公方を味方につけて、主が陣取る五十子陣を急襲。
戦いは景春方が圧勝し、山内上杉顕定は上野国へ退きました。
そのため、五十子陣は解体されました。

戦疲れしていた古河公方は、この機に乗じて山内上杉氏との間で優位に和睦を進めました。
この後、更なる泥沼が始まるのですが・・・

今はココまでで(*^ー゚)/~~


所在地:埼玉県本庄市東五十子

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