鹿沼城/栃木県鹿沼市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

鹿沼城跡は現在野球場となっています。訪問日は2011年10月29日です。

鹿沼城/切岸
▲駐車場

鹿沼城があったは御殿山公園となっています。ほとんど野球場ですがwその駐車場はすでに城跡の雰囲気がプンプン漂います^^

鹿沼城/野球場
▲野球場

駐車場から登ると野球場に出ます。あぁ、野球場か・・・・と思ったら大間違い。ただの野球場ではありません^^

鹿沼城/土塁
▲土塁

グラウンドの周りはほぼ一周、写真のような土塁で囲まれています。できればそっとしておいてほしかったですが・・・崩されずにいたのが奇跡的ですね^^

鹿沼城/空堀
▲腰郭?空堀?

そして!城跡の地形的にこれは腰郭か空堀ですね!グラウンドの西側にあります。派手に開発されている割に、元々の地形を使っているんですねヽ(´ー`)ノ


◆歴史◆

鹿沼城は鎌倉時代の1292年、鹿沼勝綱(権三郎入道教阿)により築かれました。鹿沼氏は日光山とつながりがあったとされます。鹿沼氏の出自は佐野氏とされていますが・・・だんだんその説は薄れつつあるようです。佐野氏の系譜自体かなり混乱があるようなので。

地理的には宇都宮の西隣なので、宇都宮氏の庶流という説も。ただ、鎌倉時代の所領は飛び地だらけなので、地理だけでは説明がつかないですねw

1523年、宇都宮忠綱と鹿沼綱勝が対立。忠綱は壬生綱重に命じて鹿沼城を攻略しました。この戦いにより宇都宮氏は日光神領の大半を手に入れ、宿老・壬生綱重に与えました。綱重は壬生城を嫡男・綱房に与え、鹿沼城を本拠としました。

綱房の代に宇都宮氏は家督相続や芳賀氏との争いでゴタゴタが続きました。いわゆる宇都宮錯乱の時代です。壬生綱房もはじめは宇都宮宗家寄りの立場だったのですが・・・

争いが続くなか、1549年に宇都宮尚綱が那須氏との早乙女坂の戦いで討死。すると、綱房は宇都宮城を乗っ取りました。壬生城には嫡男・綱雄、鹿沼城には次男・周長を置き、守りを固めました。壬生綱房による宇都宮城占拠は、その後8年間続きました。

1555年、壬生綱房が急死しました。これは宇都宮広綱の参謀・芳賀高定による謀殺といわれています。綱房の死を機に宇都宮城を攻めますが、あとを継いだ綱雄がよく守りました。

1557年、遂に宇都宮城は陥落し、綱雄は鹿沼城へ退きました。以後、壬生氏は宇都宮氏と対立し、後北条氏に接近するようになります。しかし、弟の周長は宇都宮氏への帰参を望んでいました。

1576年、ついに壬生周長は後北条派の兄・綱雄を鹿沼城内で謀殺しました。綱雄の跡を継いだ甥の義雄が周長には従わなかったため、周長は壬生城を攻めました。

しかし、この戦いは義雄が大勝し、周長が討死。壬生氏は完全に後北条氏寄りに一本化されました。以後、後北条氏・壬生氏 vs 宇都宮氏・佐竹氏・結城氏の戦乱が続きました。

1590年、豊臣秀吉が小田原城を包囲して後北条氏を滅ぼしました。この時壬生義雄は後北条方として小田原城に籠城していました。義雄は戦では死ななかったものの、戦後間もなく小田原で急死しました。これは、皆川広照により毒殺されたという説が有力です。

皆川広照も後北条氏方として小田原に籠城したのですが・・・後北条氏に攻められて降伏したのが1586年。・・・ということは西から後北条氏、東から壬生義雄に攻められていた筈です。そんな恨みつらみがあったものと思われます。

鹿沼城はこの時に廃城となりました。一説には、城主の不在を衝いて宇都宮氏と佐竹氏が攻め落としたとも言われています。


所在地:栃木県鹿沼市今宮町

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