若松城/福岡県北九州市戸畑区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

若松城・・・というよりも「中島城」と呼んだ方がよいのかもしれません。戸畑にあった島なのであせる現在は存在しないお城です。

若松城/若戸大橋
▲若戸大橋の下辺りにあったという

若松城は別名・中島城ともよばれ、洞海湾に浮かぶ島でした。この中島というのは通称で、正式には河【白斗】(かわと)島というんだそうです。「若松城」と呼んでいますが、戸畑村に属していました。写真の辺りにあった、らしいのですが・・・跡形も無く消滅していますあせる


◆歴史◆

築城年代および築城者は不明です。
永正年間(1504~21年の間)には既に城があり、竹内治部が居たそうです。竹内治部は鳥旗の郷士で、1515年に浄土真宗の照養寺を開基しています。なお「鳥旗」は「戸畑」のルーツではないかと言われています。他にも「飛幡」という表記もあるそうです。竹内治部の経歴はサッパリわかりませんあせる

その後、1569年には毛利氏の家臣・小田備前守が居たようです。小田備前守の事もわかりませんT_T

1601年、黒田長政が筑前の主となり、若松城を整備しました。城主には黒田24騎の1人・三宅若狭守家義を据えています。三宅若狭守は、城を落とすのは「朝茶の子を食するが如し」と言う程の猛将でした。他にも黒崎城や益富城、鷹取山城など、豊前との国境沿いに城を構えました。城主には後藤又兵衛基次や母里多兵衛友信など、名のある勇将を置いています。このものものしい配置は「筑前六端城」と呼ばれています。

これは関ヶ原の戦い後の国替えで起きたトラブルが原因です。黒田長政は豊前から筑前に移り、豊前には丹後から細川忠興が移って来ました。長政は国替えに際し、年貢を徴収して筑前に移りました。一方、忠興は「武家の作法」として、丹後では年貢を徴収せずに豊前にやって来ました。

・・・有名な話なので以下略w

若松城は1615年の一国一城令により廃城となりました。ただ、洞海湾に出入りする船の管理は必要なため、「洲口番所」が置かれました。そして1623年に三宅若狭守はこの地で没し、若松に葬られました。

江戸時代の末期には砲台が築かれましたが、その後民間に払い下げられて工場が建ちました。その後、筑豊地方で採掘された石炭が、洞海湾から大型船で全国に運ばれるようになります。石炭が主要エネルギーとなり、需要が爆発的に増加したためです。すると、洞海湾の入口にある島がどうしても邪魔ですね・・・

昭和になり、1939年から洞海湾修築工事の一環として島の除去が始まりました。惜別式まで挙行したそうで・・・翌年には完全に無くなりました。島があったことを記録しようと、旧戸畑区役所前には島の石が数個展示されているそうです。

この石は見に行っていません。だって・・・さっき知ったんですからwww


所在地:福岡県北九州市戸畑区

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