三田氏館/東京都国立市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

国立市にある三田氏館を紹介します。訪問日は2013年4月29日です。

三田氏館/北側の遊歩道入口
▲遊歩道の北側の入口

三田氏館は現在も私邸があり、見学できるのはその周囲です。東側に遊歩道があり、その北側には説明板があります。

三田氏館/国立市の説明板
▲国立市教育委員会の説明板

国立市による説明板では「城山」として紹介されています。ここに登場するのは津戸三郎と三田県主貞盛ですが、館の主を特定はしていません。

三田氏館/東京都の説明板
▲東京都教育委員会の説明板

一方、東京都の説明板では「三田氏館跡」として紹介しています。ですが、やはりこちらでも館の主については明言を避けています。ちなみに、現在は三田氏の私邸であり、そういう意味では「現三田氏館」なのでありますw

三田氏館/館の東側の谷戸

三田氏館/館の東側の谷戸
▲館の東の谷戸

遊歩道を歩いていると、左右に土の壁が見え圧倒されます。すごい土塁だな~!なんて感動したのですが・・・ここは谷戸の自然地形を利用した空堀の跡と知ったのは、ついさっきですあせる

三田氏館/東側の虎口
▲東側の虎口

その遊歩道を歩いていると、赤文字の「立入禁止」が。見上げると、土盛りの上の方が欠けています。ここが東側の虎口の跡でしょうか。立入禁止になったのは、ここから侵入を試みたフトドキモノが居たのでしょう。

三田氏館/遊歩道南の出口
▲遊歩道南側の出口

「すごい土塁だった」と壮大な勘違いをして遊歩道終わり。その先は何だか工事中でした。見た感じでは広場を造っているように見えました。

三田氏館/東京都環境局の説明板
▲東京都環境局の説明板

その出口脇には東京都環境局による説明板があります。そこでは、鎌倉時代初期の三田氏の館だと断言しています。教育委員会とは見解が分かれましたねw

三田氏館/南側の段差
▲南側の段差

そこから西へ、段差沿いに歩きました。館の南側は5m程の段差があります。その下には小さな川が流れており、池のようになった所もありました。おそらくかつては沼沢地だったのでしょうね。

三田氏館/西側の虎口
▲西側の虎口

さらに道なりに館跡の西側を北上すると・・・土塁がスパッと切れている箇所がありました。後世の改変なんだろうと思っていましたが、どうやらここも虎口のようです。内側を覗いてみたら民家があったので、写真は外側だけ撮りました。


◆歴史◆

「三田氏館」とされていますが、館の主は今の所特定されていません。現状ある説では・・・

菅原道武説

901年、父・菅原道真の左遷に伴い、武蔵へ左遷。左遷先は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷とされ、現在のこの館の辺りと推定されています。903年に父・道真の死去を知り、近くに谷保天満宮を勧進しました。これが道真を祀った最初の天満宮だとされています。


津戸氏説

津戸三郎為守は、平安時代末から鎌倉時代初期の人物です。1180年の石橋山合戦の頃から源頼朝に従っていた御家人です。1195年に東大寺供養で源頼朝に随行した際、法然上人と出会います。以後熱心な信者となり、関東で浄土宗を広めました。現存する法然上人の手紙30通の内、9通が津戸為守宛のものだそうです。

津戸為守は1243年、80歳の誕生日を迎えると、21日間念仏を唱えた後、割腹しました。これはお釈迦様や法然上人が80歳で入滅したのに倣ったのですが・・・その場では絶命せず、数ヶ月後に往生を遂げたそうです。当時はまだ介錯が無かったのでしょうか。

その後も津戸氏は当地を治め続けていたようです。弥勒寺から1360年に死去した「津戸勘解由左エ門尉菅原規継」の板碑が見つかりました。この名前から、津戸氏は菅原道武の子孫を称していたことがわかりました。


三田氏説

最後に通称となっている三田氏説。1924年の『谷保郷土史』では、三田県主貞盛が主だとしています。貞盛がいつの時代の人物なのかはわかりませんが・・・東京都環境局の説明板では鎌倉時代と書かれていました。現在ここで暮らしているのも三田氏だそうです。

「三田氏」というと、青梅の三田氏が思い起こされます。三田氏は平将門の子孫を称し、鎌倉時代から戦国時代まで青梅一帯を支配していました。

・・・すると、それ以前の三田氏はどこで暮らしていたのでしょうか?

平将門の子孫と称していますが、相馬家系図とは若干矛盾があるそうです。谷保村の三田家系図では「三田氏始め壬生吉志の姓たり」という記述があります。これも確証のある文書ではないそうですが・・・壬生氏は武蔵の土豪で、杣保とは深く関わっていたそうです。

1563年、北条氏照により三田氏は滅ぼされますが、北条氏の家臣に三田姓が見受けられます。三田氏にもいくつかの流れがあり、青梅の一家だけではなかったという事なのだと思います。すると、早い時期に分かれた三田氏の庶流が生き残り、現在まで続いているのでしょうか。謎が謎を呼ぶ、歴史のミステリーですねw


所在地:東京都国立市谷保

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