藤橋城/東京都青梅市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

あっと言う間にGWですね・・・
ということで、いつも通り城跡巡りです。
今回は青梅~あきる野~八王子を回りました。
その1発めは藤橋城です。

藤橋城/城址公園入口
▲公園入口

藤橋城跡は現在は公園として整備されています。周りに駐車場が無かったので路駐です。クルマの方は、裏側(北)なら多少の駐車スペースがあります。

藤橋城/説明板
▲入口脇に説明板があります

公園に入ってすぐに、青梅市教育委員会による説明板がありました。 ・・・ということは、東京都が立てている説明板は都の史跡なのでしょうかね。まあ、どこの何であろうと、ありがたいものです。

藤橋城/説明板(拡大)
▲説明板

説明板には、ここの城主は平山越前守虎吉であったこと。平山氏は檜原や平井、大久野も領地としていたことなどが書かれています。詳しくは下の「お城の歴史」で妄想したいと思います。

藤橋城/公園内の風景
▲公園内部

入口から入って期待に胸を膨らませてキョロキョロしますが・・・いたって普通の公園です。言われなければ城跡だとは気が付かない位に普通です。そんなハズでは・・・

藤橋城/東側の土塁
▲公園東部に土塁 発見!

とりあえず1周しようとまずは東側に出ようとしました。出口に向かって歩いていると、何だか土が盛り上がっているような・・・!どうやら低くてなだらかなのですぐには気付きませんでしたが、土塁が巡っていました。

藤橋城/公園東にある土塁跡
▲公園の東口前にある土塁

東側の出口を出ると、道を挟んで不自然な土の盛り上がりがあります。周囲の状況からすると、ここも土塁のようです。・・・ということは、公園の東~南を通っている道は空堀の跡なのかもしれません。

藤橋城/北の田んぼから見た城跡
▲公園を北から眺めたところ

東から北へ移動して信号を左折すると、周りは田んぼになります。道から田んぼを挟んで城跡を見ると、沼に浮かぶ島のよう。関東に多い沼に囲まれたお城だったようですね。

藤橋城/公園の西側
▲城跡の西に続く

北のあぜ道から城跡に向かい、城跡の西から再び「上陸」します。お城の西にもずっと段差は続いているので、もしかすると家が建っている所も城域だったのかも。

藤橋城/公園西側の土塁
▲公園西側の土塁

再び公園に戻り、今度は入口から西へ。こちら来ると、すぐにそれと分かる土塁がありました。東側の土塁よりもはっきりしています。周りは住宅街になっており、よくぞ残してくれた!という感じです。


◆歴史◆(かなり妄想入ってます)

ここもですが、築城年・築城者はわかりません。説明板にあったように、平山氏に関連するお城のようです。

わからないことだらけだとついつい燃えるわ・た・しメラメラ意地になって半日ネットで調べまくりました。そこから見えたのは・・・他のサイトやブログには無い「新説」だと思います。妄想大爆発ですw

平山氏は日野市にある平山城を本拠とする豪族です。各地に所領を持っていて、遠く檜原城から西多摩を広く支配していました。「藤橋城」で検索している内は「藤橋小三郎」や「平山越前守虎吉」しかヒットしません。しかも、彼らについてはせいぜい名前がわかるだけです。

この藤橋城、実は後北条氏により攻め落とされたことがあるのです。それが1563年。これは岩舟地蔵尊を調べた時にわかりました。

1563年といえば、北条氏照が三田綱秀を攻め滅ぼした年です。三田綱秀が本拠としていたのが、藤橋城の西2.5kmにある勝沼城です。

1561年に長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵した時、上杉管領家の元家臣が長尾軍に投降しました。三田氏もそうでしたが、実はこの時に平山氏は2つに分かれたのでした。

長尾景虎が鎌倉で関東管領に就任した時、配下を記録した『関東幕注文』が作られました。この中で勝山衆に「ひらやま 鷹の羽」の名が出てきます。

同年、檜原城の平山氏重が、妹を平山光義に嫁がせています。ここから当時の藤橋城の城主が平山光義だとわかりました。岩舟地蔵尊は藤橋城近くのお寺に納められたそうです。

しかし、1563年に北条氏照により攻められて落城し、光義は下総へ落ち延びました。光義に嫁いだ氏重の妹と岩舟地蔵尊は、檜原に返されたそうです。

1561年時点では既に敵味方に分かれていたであろう両平山氏。それがなぜ婚姻関係になるのか・・・

三田氏最後の砦となった辛垣城の歴史を調べた時に感じた疑問。それは、名将・北条氏照が、なぜ小さな山城1つを落とすのに2年もかかったのかということ。辛垣城は確かに天険の要害ですが、それにしても時間がかかり過ぎです。

平山氏の動きとリンクして、妄想をめぐらした結果は・・・

力攻めをすればすぐに排除できる敵対勢力を、可能な限り穏便に味方にしようとしたのかと思います。緊迫した時期の婚姻も、三田氏勢力の切り崩しの一環というように考えました。

関東の小勢力の動きを見ると、上杉謙信に寝返った者もすぐに後北条氏に帰参しています。しかも、この動きを何度も繰り返すのです。後北条氏の当主が織田信長のような人であれば、あっさり攻め滅ぼされそうな動きです。ここから、後北条氏は力でねじ伏せるタイプではなく、優しく接して慕われる領主像が浮かびます。

結果的に藤橋城の平山光義は寝返りませんでしたが、戦後許されています。後日談として、檜原に返された氏重の妹は、下総で帰農した光義のもとで幸せに暮らしたそうです。

すると、色んなサイトに登場する「北条家臣」平山越前守重吉は、その後の城主と思われます。近在の報恩寺は、天正年間(1573~91)に藤橋城主・平山越前守重吉により再興されたそうです。この時期に再興ということは、1563年に巻き添えを喰って焼かれたのでしょうか。

重吉は1584年に亡くなったそうで、その後の城主が平山越前守虎吉なのかも。藤橋小三郎については謎のままですが・・・

彼は「清戸三番衆」の中に名前が登場します。清戸三番衆とは、北条氏照が三田氏の旧臣を組織化したものです。・・・ということは、藤橋小三郎は三田氏の家臣だったのですね。

藤橋氏と平山氏の関係も想像するしかないのですが・・・平山氏の城のある地名を姓として名乗るということは、家臣にできることではないと思います。ということは、城主が地名をとって別名として名乗ったのかもしれません。


所在地:東京都青梅市藤橋

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