小田原古城/神奈川県小田原市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

先週と昨日とで小田原古城を見て来ました。来る前に参考に見たサイトで意外に色々遺構があると知りました。

規模が大きいとは分かっていましたが・・・1回で見切れませんでしたw2回見てきたのですが、写真は順不同です。

小田原古城/三の丸外郭
▲三の丸外郭新堀土塁

まずは三の丸外郭から。ここは武田信玄に攻められた時の教訓から強化された所です。最初に来て、その規模に圧倒されました。そして、これだけの土地が手に入った事にも感心しました。ここは2006年までは民有地だったそうです。そういえば、近年小田原市は小田原城の復元に力を入れていますね!色んな所で紹介されているのは「土塁」としてですが・・・小さなお城なら丸ごと収まる位の規模です。

※ここだけ公開時間が限定されています。AM10~15時まで。

小田原古城/小田原高校正門脇の説明板
▲小田原高校正門脇にある説明板 拡大表示

続いて小田原高校正門脇にある説明板へ。小田原城の周りにはあちこちに丁寧かつ図入りの本格的な説明板があります。その中で、総括的に古城について書かれているのがコレ。「小田原城」っていうと、あの白亜の天守をイメージしますからね。私もつい最近まであれを建てたのは後北条氏だと勘違いしていました。

小田原高校は西曲輪の跡で、障子堀も発掘されたそうですが・・・見る限り普通の高校です。城跡らしい雰囲気はありません。地図を見るとわかるのですが、古城一帯はかなり徹底的に開発されています。

小田原古城/東曲輪(下から)
▲東曲輪(下から)

そして次は東曲輪へ。線路沿いにあり、突然こんな感じの場所が現れます。高さは15~20mくらいはありそうです。

小田原古城/東曲輪(登った所)
▲東曲輪

階段を上ってくると、そこは一面のっぺりした芝生の平地。削平が甘く、緩やかな傾斜があります。 このままここに建物を建てて住んだら健康に良くないですねw

小田原古城/東曲輪から天守
▲東曲輪から見た小田原城復興天守

東曲輪の最大の見所は、小田原城の復興天守がよく見えること。普段見慣れているのとは正反対からバッチリ見えます。何事も裏から見ようとするクセのある私には嬉しい限りです^^

この東曲輪、実はマンションの建設予定地だったそうです。それを2006年に小田原市が取得・整備し、2010年から一般公開しています。

小田原古城/早川口の総構
▲早川口の総構の遺構

早川口の総構は、国道1号を早川口で左折し、最初の信号を左折した所にあります。ですが、行き止まりな上、車だと停める場所もUターンする所もありません。ですが・・・平坦地にある総構の遺構は珍しいそうです。なんとなくではありますが、巨大な空堀と土塁があったんだろうなという雰囲気はあります。この土塁を辿ると、そこいらの民家の土台となってその先も続いていました。

小田原古城/谷津御鐘台の坂
▲谷津御鐘台にある道

御鐘台という名前は2箇所に付けられたそうですが、台地の先端に設けられた砦を指すそうです。確かにココの地形は段差が20mはありそうです。このような地形が小田原城の北を東西に続いていました。

小田原古城/城下張出の堀
▲城下張出の堀

ここの堀が曲がっているのが感じ取れると思います。これは横矢掛かりなのだそうです。家と比べると、その規模の大きさが分かると思います。

小田原古城/総構山ノ神堀切
▲山ノ神堀切 総構の説明板

関東学院大学の付近は総構えがとても良い状態で保存されています。遺構というよりはもはや地形となっている感じさえします。その「稜線」上を通っている道があり、そこからこの堀切を見ることができます。比高20mはあろうかという総構の土塁。堀切まで付けられるなんて、もはや1つの長い山城のようです。

小田原古城/小峯御鐘ノ台大堀切中堀
▲小峯御鐘ノ台大堀切中堀

その「稜線」上の道を西へ進むとな地形に出くわします。いかにも空堀だったっぽい道と、その脇の10mはあろうかという土の壁・・・そこが小峯御鐘ノ台大堀切です。この道はその「中堀」で、途中に蓮船寺があります。

小田原古城/小峯御鐘ノ台大堀切東堀
▲小峯御鐘ノ台大堀切東堀 小峯御鐘ノ台大堀切東堀の説明板① 

その道と土塁を隔てた隣には東堀があります。高低差10mもある2重の空堀・・・なのかと思ったら3重でした!ここは本曲輪の西を守る重要な場所だったそうです。

これだけのスケールでありながら、途中で屈折させる念の入れよう。ただデカイだけでないのが魅力的です。こうして見てると、その規模は江戸城や大坂城に匹敵すると感じました。

小田原古城/天守から
▲小田原城復興天守から八幡山方面を見ました

最後に小田原城の復興天守に上って古城を一望しました。東曲輪がとても目立ちます。その竹林の向こう側が本曲輪でした。こうやって見ると本曲輪の所が一番高いですね!

今の小田原城とは地続きですが、どこまでが後北条氏の遺構なのか不明だそうです。古城のあった場所は江戸時代まで立入禁止だったそうです。でも、こうやって見渡してみるとかなり開発されていますね・・・。三の丸外郭や東曲輪のように、少しずつですが復元されつつあります。

お金も時間もかかる史跡の復元は、やはり行政の力が無いと無理ですね。市の方針が途中で変わらないことを祈るばかりです。そういえば少し気になる情報がどこかの説明板に書かれていました。小田原城の復興天守についてです。

白亜の天守も既に建築から60年以上経ったそうで、耐震基準が怪しくなってきたとか。そこで補強をするのか、それともこの際木造で復元するのか、といった議論があるそうです。個人的にはコンクリ天守も飽きたし、どうせなら復元!がいいと思います。

小田原古城/ついでにスタンプ
▲小田原城の100名城スタンプ

ついでに100名城スタンプもゲット!天守入口の改札の所で声を掛けると押させてくれます。

昨夏に制覇した100名城ですが、スタンプは1個も無しあせるスタンプ集めに2周目まわろうかな・・・w


◆歴史◆

「初代小田原城」というべきですね。現在見られる「小田原城」は、後北条氏滅亡後に造り替えたものです。

平安時代末か鎌倉時代初期、小早川遠平が築いたとされます。小早川遠平は土肥実平の子で、土肥氏は相模西部の有力豪族でした。

1416年の上杉禅秀の乱で、土肥氏が没落しました。土肥氏の旧領地は、大森頼春に与えられました。大森氏は小田原城を本拠とし、箱根に多くの城を築きました。

1495年、伊勢宗瑞(北条早雲)が奇襲により小田原城を奪取しました。その後も大森氏を攻め、その領地を奪いました。伊勢宗瑞は韮山城を本拠とし、小田原城は相模進出の拠点としました。

後北条氏が小田原城を本拠としたのは、2代目の北条氏綱です。北条氏綱ははじめ、父と同じ伊勢姓を名乗っていました。伊勢宗瑞の没後、1523年から「北条」姓を名乗るようになりました。

1561年、長尾景虎が小田原城を包囲しました。3代目・北条氏康の時代です。籠城は1ヶ月続きましたが、武田信玄がこの間に海津城を築城しました。このため、長尾景虎は越後へと兵を退きました。尚、小田原城攻めの間に関東管領に就任し、上杉政虎と改名しています。

1568年、武田信玄が三国同盟を破棄して北条領の駿河を攻め取りました。
1569年、小田原にも攻め込み小田原城を包囲しています。激闘は3日間続き二の丸まで攻め込まれましたが、武田軍は退却しました。これは武蔵の北条氏邦・氏照らが小田原に向かったためでした。

戦後、北条氏康は三の丸外郭に大改修を加えました。さらに、武田信玄を牽制するため上杉政虎と同盟を結びました。この時に北条氏康の子・三郎が人質として越後へ行きました。この三郎が、上杉謙信没後に御舘の乱を起こした上杉景虎です。

1589年、後北条軍が惣無事令に反したため、豊臣秀吉と対立します。豊臣秀吉が宣戦布告をしたため、北条氏直は総構を構築しました。

1590年、豊臣秀吉が全国から22万人を動員し小田原城を包囲しました。その結果、北条氏政は降伏し、後北条氏は滅亡しました。後北条領には徳川家康が移され、大久保忠世が小田原城主となりました。大久保忠世は総石垣の城に改修し、今日見られる小田原城の原形となりました。

1614年、大久保長安事件により大久保氏が改易となります。壮大堅固な造りを恐れた徳川家康は、数万の兵を率いて総構を破壊しました。・・・やっぱり有名なお城だと色々ありますねw


所在地:神奈川県小田原市城山ほか
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