プルシャとプラクリティ、この二つの言葉を最近のブログの中でよく出していますが、ほとんどの方は聞きなれない言葉かと思います。
 
 
しかし、ヨガの哲学を考える上でこの二つの原理をよく理解することはとても大切なことです。
 
 
プルシャは純粋意識
 
プラクリティは根元物資
 
 
この二つの原理は永続し、無くなることがありません。
 
 
プラクリティは変化し続けるもの
 
プルシャは変化しないもの
 
 
この二つの原理が結びついて世界が展開します。
 
 
プルシャは涅槃(ニルヴァーナ)の世界にいます。しかし、顕現したプラクリティが結びつくと、プラクリティを私だと勘違いして苦が生じます。
 
 
つまり、変化する体や心を私だと勘違いします。
 
 
ですから、プルシャは私たちの本質であり、
 
ブラフマンであり、アートマンであり、
 
このプルシャに専念することがヨガの目的であると、『バガヴァッド・ギーター』9章4〜14節の中でクリシュナは述べています。
 
 
 
この世界は、実態のないブラフマンである私によって満ちている。万物は私の内にあるが、私は万物の内にはない。しかし、万物は私のうちにはない。
私の神聖なヨーガを見よ。アートマンは万物の元であるが、万物の内にはない。
風が空間の中を吹くように、万物は私の内にある。
梵の昼が終わると、万物は顕現していないプラクリティへと戻り、梵の夜明けには、私がそれを出現させる。
プラクリティの力によって、私は繰り返し何度も万物を出現させる。
しかし、私はそれらの行為に執着せず、束縛もされない。私は中立である。
私は監視者である。プラクリティは万物を生み出し、世界が展開する。
人々は私の最高の状態を知らず、人間の姿の私を見て迷う。
彼らはプラクリティを本質と見て、欲望を抱き、空しい知識を求め、分別なく、迷っている。
しかし、偉大な人々はダイヴィプラクリティ(神聖なプラクリティ)に頼って、私を万物に源であると知り、私に専念する。
彼らは私をあがめ、一心に専念し、バクティ(信愛)によって礼拝する。
 
 
 
本来私たちはプルシャであるので、
 
苦しみなく、寂静の世界にいるはずなのですが、
 
体や心というプラクリティを本性と見るので、私たちには苦しみがあると錯覚しています。
 
 
ですから、プラクリティをそのようなものと知って、プルシャに専念し苦しみや迷いから解放されることが、ここではバクティ・ヨーガであると言われています。
 
 
 

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