覚者は「あなたが不安になることは不可能です」という。


しかし、私は疑いようもない不安を感じている。


しかし、賢者はあなたが不安にはなれないという。


ならば、この不安は誰が感じているのだろうか?


覚者の言葉が真なのだとしたら、私は不安だという表明は偽ということになる。


しかし、不安はいまここにある。


ということは主語が違うということだろう。


私は不安がある。

でも、私が不安になることはできない。

ならば「わたし」ではないものが不安だということなのだろう。


不安があることは事実だが、「わたし」に属するものではないということであろう。 


ならば誰が不安を感じているのか?

そして「わたし」とは何なのか?


ここに大変都合が良い表現があります。

マインドです。


そうか、「私は不安だ」と言っているのはマインドだ。

そして覚者が言うとおりに考えると、不安はマインドに属し、「あなた」はマインドではない、ということであろう。


マインドは不安を体験するが、「わたし」は不安を体験しない。


ならば日常での表現方法も変えたほうが良いだろう。

私は怖い、ではなく、「私が所有するマインドが怖れという感情を体験している」と表現すべきであろう。

私は辛い、ではなく、「私が所有するマインドが辛いという思考を生じさせている」と表現すべきであろう。


マインドが怖れという感情を感じている。

マインドが辛いという思考を生み出している。


そしてそれにも関わらず、それはマインドであって「あなた」ではないのだから、あなたはいつも平安ということだろう。


「私マインド身体」(自己同一化)


ではなく、

身体

マインド

わたし

(脱同一化)

ということであろう。


例えば部屋という空間に机を置く。

空間は机を包括しますが、空間が机になったわけではありません。

机を持ってこようが、椅子を持ってこようが、おもちゃを持ってこようが、空間はそれにはなりません。


同様に、あなたは空間です。

あなたの中で恐れという感情や破局的な思考が生じても、あなたはそれに侵される存在ではありません。全く影響を受けません。ただ空間は空間として平安です。


だから覚醒は「あなたは不安になることが出来ない」というのです。

不安とはマインドの次元です。

でも、あなたはマインドではありません。

マインドを超越した存在ですから。 

だからあなたは自分の感情が生じていることを観察していることを観察することが出来るのです。

気づいていることに気づいていることが出来るのです。

これができること自体、あなたと思考感情身体感覚などの現象とは区別され得るものだという事実を示唆しています。


だからうつ病だからといって、パニック障害だからといって、強迫性障害だからといって、双極性障害だからといって、不安障害だからといって、統合失調症だからといって、悩む必要はないのです。

それはただマインドで起こっていることです。

あなたがおかしくなったわけではありません。

マインドが暴走しているだけです。


そしてそんなマインドの暴走中においても心の平安を感じることは出来ます。

なぜなら、「脱同一化」によってあなたはマインドや身体と自分自身とを切り離すことが出来るからです。

マインドフルネスしましょう。瞑想しましょう。

大事なことは、常に気づくことです。

段々とマインドの罠に気づいてきます。

どんなおかしな働きも、気づきの炎で燃やし尽くすことが出来ます。

心のおかしな働きは、気づくことによって無くなります。

つまり我々は起きていながらも夢を見ているのです。

だから悟った人のことを「覚醒めた人」と呼ぶのです。

マインドフルネスは科学的に証明されています。

宗教者達だけでなく、科学者達もマインドフルネスを素晴らしいと称えています。

今日から毎日1分でもいいから、継続して試してみてください。

毎日決まったタイミングで行うことが大事です。

もう少しスピリチュアルな生活を始めてみましょうね。


物質的な幸福だけを求める人生は、ハムスターが回し車を走り続けるようなものです。

ここで一句考えました。


この欲が

   達成したから

      つぎの欲


終わりがない。

常に緊張とプレッシャーと他者比較意識と、あらゆるしがらみによって不自由な人生を生きなければなりません。

社会のお馬鹿なゲームです。

そんな世界から抜け出すこと。

そこに心の平安がある。