「暖かい闇の中で」
犬を飼っている玉枝の掛かり付けの病院へ着くと、腕に猫を抱えたまま診察室へ入った。
優しい熊のような風貌の獣医師は、玉枝の赤い目と、その腕の中で心地よさそうにしている猫を交互に見て、
「産まれたか?」と冗談を飛ばした。
「また~!違いますよ!この猫、3丁目の児童公園の前の大通りを、よろよろと歩いていたんです」
鼻をすすりながら、やや笑顔になった玉枝は、一通り経緯を説明すると、猫を診察台に乗せた。
「どれどれ」
猫は熊のような大きな手で、診察をされる間も、猫はゴロゴロと喉を鳴らしている。
「この子、歯が無いね。かなり歯茎も悪いし、臭いも凄く出ている。高齢…う~ん、16歳位かな?もしかしたら、もっと行っているかもね。腎臓も弱って来ているし…。何故、外を歩いていたのかなぁ?首輪の跡が有るから飼い猫だっただろうし…」
「先生、飼い主さん、探していると思うのですが、どうしたら良いですかね?」
玉枝は、猫が、目が見えないにも関わらず、大きな道路を横断してまで飼い主の元へ帰ろうとしていたとしか思えなかった。
先生は「あの児童公園の近所の人は、うちか、2丁目の動物病院に掛かっていると思うから、私から迷子の連絡が来ていないか聞いておいてあげるから、警察と、愛護センターへの届けは宜しく!」と言ってくれた。
玉枝は各所へ届出を済ませ、猫を家に連れて帰った。
家では、飼い犬のチロスケが、猫の頭に鼻を付けて匂いを嗅いだ。そして、怒るでも喜ぶでも無く、自分のベッドに戻って寝てしまった。
玉枝は、チロスケの頭を撫でながら「ありがとう」と言った。
チロスケは、眠たそうな目を向けて、玉枝の鼻をぺロッと舐めた。
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私は、違う家に来たようです。
臭いと、入ってくる光の加減の違いで分かりました。
お部屋は暖かく、清潔なトイレと、暖かいベッド。そして柔らかい美味しい御飯を食べ、私はどんどん疲れが取れて行きました。
玉枝さんは、私を「タマ」と呼びます。
前の家でも、私は「タマ」と呼ばれていました。偶然といえども、不思議な縁を感じました。
「タマ~、タマは何処へ行こうとしていたの?飼い主さん探しているよね?早く見つかると良いね~」
玉枝さんは、毎日私を抱っこして、撫でてくれます。
お母さんも、美味しい御飯を持って来て、「タマ可愛いね~」と撫でてくれます。
この人達は、私の大好きな抱っこを沢山してくれる
新しい首輪は、赤くて金色の小さな鈴も付いています。
迷子にならないように、連絡先まで書いてくれました。
犬のチロスケも私を追い回したりしません。静かに同じ空間を共有してくれます。
私は、この家で、ずっと暮らしたいと思うようになっていました。
私の目は見えないけど、きっとこの人達の表情は暖かいと思う。
此処は、この人達は…暖かい。
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「えええええ!信じられない!」玉枝の声が動物病院中に響き渡った。
「うん。2丁目の病院で、とても似ている子を飼っていた人にたどり着いた。その飼い主さんは、最近仔猫を買ったとかで、前の高齢の猫の事を聞いたら「知人にあげた」と答えたそうなんだよ。それで、その知人の方に、逃げ出していないか聞いて欲しいと頼んだら、「死んだ」と返事が返って来たって言うんだ…」
いつもは、笑顔しかしない獣医師が、珍しく表情を曇らせていた。
そして「仔猫の時は可愛がっても、高齢になって歯が悪くなり口が匂ったり、便の調子が安定しなったり、医療費もかさむし…結果、捨ててしまう人も居るんだよ。公園や河川敷等に遺棄して、だれか拾ってくれると安易に考える無責任な人も居るんだよな…」
先生は、ますます表情を曇らせた。
じっと涙を堪えながら聞いていた玉枝は、言った。
「先生!私、タマを家族にします!こんな状態で彷徨って、家に帰ろうとしていた子を、またそんな飼い主に戻せません!私が拾いました!私が責任を持って、最後の最後まで一緒に暮らします!」
獣医師の表情がパッと明るくなった。
「そうか、ありがとう!治療は出来る限りの事はさせて貰うよ」
「先生、さすがぁ~。体だけじゃ無くて、心も大きいね~」
玉枝の冗談に、獣医師は大きな口をあけて笑った。
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暖かい部屋の中で、私はうっすらと光だけを感じています。
人の温もりや、優しい声を頼りに、部屋の中を歩きます。
時々、チロスケが、テーブルの角にぶつかりそうになる私を、鼻で押して助けてくれます。
私の、穏やかな毎日は、本当に暖かい毎日です。
つい最近、うっすらと感じた光が、だんだん弱まり、闇となりました。
今私は光を感じない闇の中で暮らしています。
でも、毎日の生活は変わらない。暖かい。
私は、動物です。自分に残された時間が少ない事は分かります。
そんなに長くはありません。
もし、この世の中に、人間が言う「神」が、存在するのであれば、私は、その「神」にお願いをします。
いいえ、贅沢は言いません。こんなに愛情を受けて、暖かい室内で、安心して美味しい御飯を食べ、日向ぼっこをして、沢山抱っこして貰って、私は、これ以上何かを望むなんて、それこそバチ当たりな事ですから。私は充分幸せです。
でも、出来るならひとつだけ、もうひとつだけ叶えたい願いがあります。
私の目は白く濁り、何も見えません。
最後の最後、出来れば私の命が尽きるその時までには、一瞬で良いのです、私を抱き上げてくれた玉枝さんの顔を見させてください。
暖かい、この腕の持ち主の顔を見させて下さい。
私の願いは、たったひとつだけなのです。
私を愛情で包んでくれた人の顔を…見させて下さい。
「タマ~可愛いね~」
玉枝は今日も、チロスケの散歩が終わるとタマを抱き上げ、タマの顔に自分の頬を摺り寄せる。
タマは、白く濁って見えない目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
暖かい、この腕の持ち主の顔を見させて下さい。
私は、暖かい闇の中で願いながら毎日を過ごしています。
顔を見させて下さい…
例え、それが虹の橋の袂でも…
終わり