入江先生の話は、想像もしてなかったことばかりで、驚きすぎて、信じられないというより、現実のこととは思えなかった。
ただ、入江先生が見たこともないほど真剣な顔で、信じてくれと言ったから、信じようと思った。
だけど、26歳だと言われても、急に大人になれるわけじゃないし、どうやったら大人になれるのかもよくわからない。
私が先生と結婚していて、しかも先生が入江くんだったなんて...
私が..入江先生の..入江くんの..奥さん...
大好きだから全然嫌じゃない。でも、現実感がなさ過ぎて、うれしいかどうかもよくわからない。
うれしいはずなのに、頭も気持ちもついていかない。
そっくりだとは思っていたけど、すぐには入江くんと入江先生が重ならない。
大好きだから、お嫁さんになれたなんて夢みたいだってわかるのに、手放しで喜べない。
たぶん、どうしてそんなことになったのか、ワケがわからないからだと思う。
さっき頭に浮かんだ光景は、きっと現実に起こったことだ。
ここにも一緒に来たし、楽しい想い出がたくさんあったはずなのに...
遠くから見ることしかできなくて、話したことさえない、あの入江くんが私を好きになってくれたのに...
私、なんで忘れちゃったんだろう。
どうして、入江先生が入江くんだって気付かなかったんだろう。
不意に、自分があの時悪く言われていた先生の彼女だったんだと気付く。
私が目が見えなくなったり、記憶を失くしたりしたから、先生が痩せてしまったんだとわかる。
あの人たちの言い方だったら、それだけじゃなくて、ずっとこれまでも迷惑を掛けてきたはずだ。
ごめんなさい...謝ることしかできなくて俯く私の顔を先生が覗き込む。
『――俺が記憶を失くした嫁さんを迷惑がるようなヤツだって思うのか?』
先生が私のことを『嫁さん』って言った。迷惑じゃないって...すごくうれしかった。
あの人たちの言っていたことも、気にしなくていいって言ってくれた。
入江先生がやさしく微笑(わら)ってくれて、くしゃくしゃといつものように頭を撫でてくれた。
ごちゃごちゃになった頭と、ぐちゃぐちゃになった心が、静まっていく気がした。すごく安心できた。
「私、思い出すから...頑張って、思い出すから...」
一日でも早く思い出したい。決意を伝えるように先生に言った。
「クスッ。焦らなくていいよ...そんなに簡単じゃないだろうし...ゆっくり思い出せばいい。」
先生がもう一度くしゃくしゃと私の頭を撫でながら言ってくれた。
「お前がそんな風に言ってくれて...正直ホッとしてる。
間違っていたとは思わないけど、皆で嘘を吐いていたことに変わりはないし、見えない不安からやっと解放されたばかりなのに、今度は実は記憶障害だったなんて...お前を傷つけてしまうんじゃないかって怖かった。」
入江先生の静かな声が胸に響く。
「入江先生...
私、目が見えないときに、記憶までなくしてるって言われたら、どうしていいかわからなかった。
受け止められなかったと思う。だから、先生は何も間違ってない。
それに、こうやって教えてくれたんだから、もう嘘じゃないでしょ?」
記憶がなくなってしまったことは不安だ。でも、私には入江先生がいてくれる。
「ありがとう...でも、あんまり無理すんなよ。
お前は、自分のことはいつも後回しで、ひとのことばかり考えるから...」
入江先生が仕方ないなって顔をして、目を細めて私を見る。
「そんなことないよ。」
ひとのことばかり考えているのは先生の方だ。
「さっきも謝ってただろ。俺は大丈夫だから...記憶を失くして一番辛いのはお前だ。
説明されたからって、急に自分が26歳だなんて思えないよな。
俺のことだって、そんなすぐには入江君だとは思えないだろ?
結婚してるって言われたって困るよな。少しずつ――」
入江先生は笑って言ったけど、その笑顔は切なくなるくらい寂しそうだった。
「違うのっ。」
琴子が俺の言葉を遮り、いきなり俺の首に抱きつく。
「先生が言うように、私にとって先生は入江先生で、まだ入江くんだとは思えない。
先生は私が入江くんを好きだと思ってるでしょ?だから、そんな風に言うんだよね?」
琴子が俺の首にしがみついたまま言う。
実際そうだろ?...俺が答える前に琴子は言葉を繋いだ。
「でも、違うの。入江くんは大好きだけど、まだ話したこともなくて...
先生はいつもそばにいてくれて、優しくしてくれて...先生が好きなの。」
思い掛けない琴子の告白。
「俺が好き?...入江君よりも?」
信じられなくて訊き返してしまう。
「浮気者って思うかも知れないけど...先生が好き。大好き。」
琴子が泣きそうな声で言った。
「初めてここに来た時も...」
「え?」
首にかじりついていた琴子が力を緩めた。
「同じように抱きつかれた。」
琴子の手首を持って、首にまかれた腕を解いた。
「そうなの?」
「ああ。大好きって言って、俺の為に、料理も上手くなって、勉強も頑張って、Cカップになるよう努力するとも言ってたな。」
「もーっ。意地悪。絶対最後のは嘘でしょ?」
琴子が手首を掴まれたまま、ポカポカと俺の胸を叩こうとする。
「嘘じゃないよ。お前は、それくらい俺が好きだったんだ。」
琴子が叩こうとした手を止めて、俺を見る。
「...現在(いま)も、好きなんだよな?」
もう一度、訊く。真っ赤な顔で琴子が頷く。手首ごと琴子を引き寄せ、掠めるように唇を奪う。
ゆっくりと唇を離すと、息を止めていたのか、琴子が小さく息を吸い込んだ。
「はじめて...キスしちゃった。」
琴子がそっと呟いた。
「2回目の初めてだな。」
まさか本当のファーストキスで、ザマーミロなんて言われたとは思わないよな。
あの時とは違う驚いた表情と、はにかんだ笑顔を見せる琴子に、俺は微笑(わら)って言った。
~To be continued~