父親と、そして姉と、都会で暮らし始めた高校3年の春。
父と色んな思い出を作り、無事に高校を卒業した私は大学へ進学。
父と私の感動ストーリーはこちらから←←
転校した先の高校は、大学を受験するのが当たり前のような風潮で、転校する前の学校とは環境も全然違っていたので、周りの友達もみんな派手で遊んではいたけど、受験勉強もしていたのです。
そんな環境に入れられたので、私もやはり大学へ行きたいと自ら思いました。
日本史や世界史は嫌いだったので得意の語学で行ける大学へ行こうと決め、白百合女子大学とフェリス女学院大学を受験。
お尻に火がつかないとやらない私は正月に赤本を買ってそこから2校の対策を(笑)
夏あたりから代々木ゼミナールの自習室で始発から学校へ行くまで勉強、放課後も代々木へ行って勉強、を繰り返し、見事2校とも合格しました☆
近い方ということで白百合女子大学へ進学した私。
友達もすぐできましたが、やはり破天荒で自分勝手な私、友達とはぶつかりまくり、喧嘩もした大学1年生。
そんな私が生涯に渡り、かけがえのない『仲間』という宝物を作ることになる『ダンス』と出会ったのは、白百合の友人の誘いがきっかけ。
東大のダンスサークル『WISH』の見学へ行こうと言われたのが最初でした。
ダンス?まったく興味ない、だったのですが、田舎者の私は『東大』に惹かれて行くことに。爆
そして行ってみるとなかなか楽しかったし、当時の部長(ドバちゃん)がめちゃくちゃ癒し系で先輩たちもすっごく楽しかったので、ダンスというより楽しい雰囲気に魅了された私は入部することにw
それからというもの、私はどんどんダンスにのめり込んでいきました。
上手くなりたい!
先輩のように踊れるようになりたい!
その一心で、毎日柔軟体操からアイソレーション、基礎練習に励みました。
当時私が始めたのはジャズダンス。
バレエの基礎を学び、クルクルっと回ったり美しくキレを出して踊るもの。
しかしわりと気の合う友達はみんなヒップホップをやっていました。
22代として入部した私ですが、21代の先輩だったaikoとは当時から仲良く、今となってはママ友。
そんなaikoから学ぶことはすごく多くて、破天荒でワガママだった私はよく彼女に怒られていました。
aikoにニューヨークのブロードウェイにダンスを学びに行かないか?と誘われたのは21歳になったばかりの冬。
春に、2人でNY&LAにダンスを学びに1ヶ月くらい行ったのが、私がヒップホップに目覚めたきっかけとなりました。
“hungry and tired"
先生に言われたのはこの言葉。
ひたすらhungry and tiredをイメージして、ダウンとアップというヒップホップの基礎なるものをひたすらひたすら。笑
そして同時にaikoと語り明かした時間。
あれはかけがえのないものだなー。
彼女から学んだことは本当に多くて、人として、すごくすごく成長し、自分を見つめる、自分と向き合う、ということを始めて学んだのも彼女からだった。
そしてこのWISHという場所は時間をかけて私の大切な居場所となりました。
毎年、新入生歓迎イベント・東大五月祭・東大駒場祭・12月公演・卒業公演という数々の大イベントをこなしていく。
二十歳前後の若い部員たち、約200名が一緒になって1つの大きなものに取り組んでいくということ。
舞台を作り上げるために一丸となって様々な取り組みにチャレンジしていくということ。
くだらないことで笑い合ったり、舞台で一緒に涙を流したり、汗だくになって抱き合ったり!
これは、生涯にわたり、かけがえのない経験となったし、私自身、人間というものを学ぶ素晴らしい居場所でした。
たくさんの人と関わることで自分というものが段々と見えていき、新しい自分をたくさん発見できた4年間となりました。
さて、NYから帰ってきた私は、aikoと共に同じスクールに通うように♪
そのスクールが『TERUYAスクール』毎週火曜日と金曜日の私の楽しみでしたw
先生のTERUYAさんは、めちゃくちゃダンスが上手くて愛情深い先生でした。
EXILEがデビューしたのもちょうどこの頃。
アンダーグラウンドで活躍していたダンサーたちが表に出ていって、一気にダンスブームへと世の中を変えていったEXILE。
今となってはもう雲の上の人たちになってしまったような気がしますが、当時はとても身近な方々でした(笑)
火曜日は渋谷のスタジオ、金曜日は池尻大橋のスタジオで、そして朝まで若林の交差点で練習、、といった生活。
これがずーっと25歳くらいまでは続きました。
25歳、私が椎間板ヘルニアを発症するまでは。
さて、TERUYAスクールのメンバーは、当時家族みたいな仲間で、何をするにしてもみんな集まって酒を飲んだりクラブに行ったり、とにかくめちゃくちゃ仲良くて楽しい時代でした。
そんな仲間の中から、宮崎から来た啓司は、今ではEXILEのメンバー。
それ以外の仲間たちもEXPGの先生だったり、プロダンサーとして活躍している人も。
aikoは今では小金井でキッズダンススクールを運営しています☆
WISHと、そしてTERUYAスクール。
この素晴らしい仲間に出会えたことは今では大切な大切な宝物。
今でもみんな繋がっているし、かけがえのない友達たちです。
普通に大学に行くだけでは、できない数の仲間、経験、素晴らしいものと出会った大学時代。
つい3年くらい前にはWISHのOBOG公演を開催。
久しぶりに当時の仲間や先輩後輩が集まり、舞台を作りました。
踊るのはとてもとても久しぶりでしたが、合宿なども開催されなんとか練習を積み、なんとかなんとかみんなに追いつき無事に踊ることができました!!
久しぶりにみんなと笑い、そして泣き、そして汗だく。
こんな経験、他にはなかなかできないっすよね。
しかも1番の青春時代である20歳前後で。
ダンスを始めたという選択肢は、単なる技術だけではない、仲間との絆、上下関係の大切さ、様々なものを私にくれました。
息子にもダンスをさせようと思うのは、決して流行りだけではない、私のような経験をぜひ息子にもしてもらいたいから。
人生において、大事なのは人との関わり。
それを多いに学んだダンス時代のお話でした。
つづく・・・w
父と色んな思い出を作り、無事に高校を卒業した私は大学へ進学。
父と私の感動ストーリーはこちらから←←
転校した先の高校は、大学を受験するのが当たり前のような風潮で、転校する前の学校とは環境も全然違っていたので、周りの友達もみんな派手で遊んではいたけど、受験勉強もしていたのです。
そんな環境に入れられたので、私もやはり大学へ行きたいと自ら思いました。
日本史や世界史は嫌いだったので得意の語学で行ける大学へ行こうと決め、白百合女子大学とフェリス女学院大学を受験。
お尻に火がつかないとやらない私は正月に赤本を買ってそこから2校の対策を(笑)
夏あたりから代々木ゼミナールの自習室で始発から学校へ行くまで勉強、放課後も代々木へ行って勉強、を繰り返し、見事2校とも合格しました☆
近い方ということで白百合女子大学へ進学した私。
友達もすぐできましたが、やはり破天荒で自分勝手な私、友達とはぶつかりまくり、喧嘩もした大学1年生。
そんな私が生涯に渡り、かけがえのない『仲間』という宝物を作ることになる『ダンス』と出会ったのは、白百合の友人の誘いがきっかけ。
東大のダンスサークル『WISH』の見学へ行こうと言われたのが最初でした。
ダンス?まったく興味ない、だったのですが、田舎者の私は『東大』に惹かれて行くことに。爆
そして行ってみるとなかなか楽しかったし、当時の部長(ドバちゃん)がめちゃくちゃ癒し系で先輩たちもすっごく楽しかったので、ダンスというより楽しい雰囲気に魅了された私は入部することにw
それからというもの、私はどんどんダンスにのめり込んでいきました。
上手くなりたい!
先輩のように踊れるようになりたい!
その一心で、毎日柔軟体操からアイソレーション、基礎練習に励みました。
当時私が始めたのはジャズダンス。
バレエの基礎を学び、クルクルっと回ったり美しくキレを出して踊るもの。
しかしわりと気の合う友達はみんなヒップホップをやっていました。
22代として入部した私ですが、21代の先輩だったaikoとは当時から仲良く、今となってはママ友。
そんなaikoから学ぶことはすごく多くて、破天荒でワガママだった私はよく彼女に怒られていました。
aikoにニューヨークのブロードウェイにダンスを学びに行かないか?と誘われたのは21歳になったばかりの冬。
春に、2人でNY&LAにダンスを学びに1ヶ月くらい行ったのが、私がヒップホップに目覚めたきっかけとなりました。
“hungry and tired"
先生に言われたのはこの言葉。
ひたすらhungry and tiredをイメージして、ダウンとアップというヒップホップの基礎なるものをひたすらひたすら。笑
そして同時にaikoと語り明かした時間。
あれはかけがえのないものだなー。
彼女から学んだことは本当に多くて、人として、すごくすごく成長し、自分を見つめる、自分と向き合う、ということを始めて学んだのも彼女からだった。
そしてこのWISHという場所は時間をかけて私の大切な居場所となりました。
毎年、新入生歓迎イベント・東大五月祭・東大駒場祭・12月公演・卒業公演という数々の大イベントをこなしていく。
二十歳前後の若い部員たち、約200名が一緒になって1つの大きなものに取り組んでいくということ。
舞台を作り上げるために一丸となって様々な取り組みにチャレンジしていくということ。
くだらないことで笑い合ったり、舞台で一緒に涙を流したり、汗だくになって抱き合ったり!
これは、生涯にわたり、かけがえのない経験となったし、私自身、人間というものを学ぶ素晴らしい居場所でした。
たくさんの人と関わることで自分というものが段々と見えていき、新しい自分をたくさん発見できた4年間となりました。
さて、NYから帰ってきた私は、aikoと共に同じスクールに通うように♪
そのスクールが『TERUYAスクール』毎週火曜日と金曜日の私の楽しみでしたw
先生のTERUYAさんは、めちゃくちゃダンスが上手くて愛情深い先生でした。
EXILEがデビューしたのもちょうどこの頃。
アンダーグラウンドで活躍していたダンサーたちが表に出ていって、一気にダンスブームへと世の中を変えていったEXILE。
今となってはもう雲の上の人たちになってしまったような気がしますが、当時はとても身近な方々でした(笑)
火曜日は渋谷のスタジオ、金曜日は池尻大橋のスタジオで、そして朝まで若林の交差点で練習、、といった生活。
これがずーっと25歳くらいまでは続きました。
25歳、私が椎間板ヘルニアを発症するまでは。
さて、TERUYAスクールのメンバーは、当時家族みたいな仲間で、何をするにしてもみんな集まって酒を飲んだりクラブに行ったり、とにかくめちゃくちゃ仲良くて楽しい時代でした。
そんな仲間の中から、宮崎から来た啓司は、今ではEXILEのメンバー。
それ以外の仲間たちもEXPGの先生だったり、プロダンサーとして活躍している人も。
aikoは今では小金井でキッズダンススクールを運営しています☆
WISHと、そしてTERUYAスクール。
この素晴らしい仲間に出会えたことは今では大切な大切な宝物。
今でもみんな繋がっているし、かけがえのない友達たちです。
普通に大学に行くだけでは、できない数の仲間、経験、素晴らしいものと出会った大学時代。
つい3年くらい前にはWISHのOBOG公演を開催。
久しぶりに当時の仲間や先輩後輩が集まり、舞台を作りました。
踊るのはとてもとても久しぶりでしたが、合宿なども開催されなんとか練習を積み、なんとかなんとかみんなに追いつき無事に踊ることができました!!
久しぶりにみんなと笑い、そして泣き、そして汗だく。
こんな経験、他にはなかなかできないっすよね。
しかも1番の青春時代である20歳前後で。
ダンスを始めたという選択肢は、単なる技術だけではない、仲間との絆、上下関係の大切さ、様々なものを私にくれました。
息子にもダンスをさせようと思うのは、決して流行りだけではない、私のような経験をぜひ息子にもしてもらいたいから。
人生において、大事なのは人との関わり。
それを多いに学んだダンス時代のお話でした。
つづく・・・w