父が独自の競馬予想業のシステムを考え出し、成功し始めたのは、私が中2か中3の頃でした。
私が高校生になるころには、杉並の一軒家を購入し、そこに引っ越しました。
父も私たち家族も、当時、経済的に裕福になったのは嬉しく、浮かれていました。
でも、車もでっかいキャデラックにして、家もこてこての成金趣味。私は正直、ちょっと恥ずかしかったです。
いわゆる、木彫りのトラの置物とか、クマの顔つきの敷物とか、変にヨーロッパ風の壁紙とか、コントのセットの『金持ち風の家』かよ?みたいな家でした。もちろん全部、父の趣味。
一番 恥ずかしかったのは、日本風の木の感じを出した塀に灯籠があった日本風の庭に、父がいきなり噴水を建てようと言い出し、庭の土をつぶして白のタイルを敷き詰めてしまい、そこに噴水を建てちゃって、、、。
でも塀はそのままの日本風にしていたので、ちぐはぐで、すっごい変。笑
その不自然な噴水見るたび、ここは噴水よりは、かっぽーん、、、、のししとう(でいいんでしたっけ?竹のつつ)?だろうが、、、と思っていました。
しかも当時、父がハマってた音楽が、津軽三味線、津軽じょんがら系。それを、なんと、まさかの大音響でキャデラックを運転しながら聴いていました。
津軽三味線かっこいいけど、キャデラックと、じょんがら???
なんで、いつも和洋折衷なんだよおおおーーーー。
羽振りがよくなってから、ほとんど毎晩、どっかで飲んで上機嫌で夜中の3時~4時に帰ってくるのですが、いつも必ず、族かよ?の窓全開で、大音響の津軽じょんがらをかけながらの帰宅。ってか、まじ、族。
ぱりらりら~の代わりに、べんべんべんべん~なだけ。
杉並の閑静な住宅街に、夜中の3時、突如響き渡る、津軽三味線の音。

べんべんべんべんべん~べん、べ、べ、べ、べん~~~~~~

大音響の津軽の音と、杉並の住宅街の狭い路地には迷惑な、アメ車ボディ!!!!
この変な日米合作の◯チガイが、ご帰宅だあああああーーー!!
近所迷惑 甚だしい!!!
よく、苦情が出なかったと思うけど、近所の人もこわかったんだろうな、、、と思います。

そして、その頃の、羽振りよくなって浮かれてるの巻のころの、すってーんな思い出。

学校で校内放送があり、『野沢さん、野沢直子さん、至急、職員室に行ってください~』
と、言われ、あれー なんかしたっけ?と思いながら職員室に行くと、担任の先生に、「おお!なんか家から電話あったぞ。すぐに家に電話してくれって言っててな。なんか、悪い事じゃなきゃいいなあー」と言われて、焦った。
急いで、学校の公衆電話から家に電話しました。
誰か、死んじゃったのかな、、、?おばあちゃんかな、、、?どうしよう、あー、誰か早く、電話出て!!
もう泣きそうになっていると、父が電話に出ました。
そして、、、、

「おお!あのなー、今日、家族みんなでサーカス見に行くことにしたから!学校、早退してこいよー」だと。

ちーーーん、、、、。

言われた通りに早退し、母、弟、死んだのかと思ったおばあちゃん、みーんなでサーカス見に行って、クマの曲芸見ながら、思った。

そりゃあさ、まじめな高校生でもないよ。
早退できて、嬉しいけど、、、。嬉しいけど、、、。
これ、学校早退してまで、見たいものかよおおおおおーーーー!!
おいクマ!!一輪車に乗れるからって調子のんなよ!!
と、関係ないクマに怒ってみたりした。

その後、家族旅行といえば、函館競馬を見に行く、、、でした。涙