あるイタリア人作家が

このような内容の投稿をしていました。

 

僕たちは、物事を

英語で呼ぶことを教えられてきた。

 

特に必要もないのに、わざと難しく、

わかりにくくするために。

 

本来は嫌悪すべきことを

慣れない言葉で呼ぶことで

煙に巻き、

「なんとなく」受け入れさせるために。

 

 

 

「支配者たちの言葉」を使うのはやめて、

僕たちの言葉を使おう。

 

それが、自分たちの存在を

主張し、守ることになる。

 

 

 

「スペンディング・レビュー」ではなく

「新自由主義の歳出削減」と呼ぼう。

 

「グリーンパス」ではなく

「差別目的の緑の切符」と呼ぼう。

 

 

 

イタリアでも、日本と同じことが

起こってるんだなと思いました。

 

 

 

英語での呼称は、

都合の悪いことを、わかりにくくし

なんとなく

「すごいことなんだ」

「新しい現象なんだ」

といった印象を植え付け、

抵抗なく受け入れさせるために

使われたりします。

 

その結果、多くの人は

「よく分からないけど、仕方ない」

といった、諦めの感情とともに

それを受け入れていくのです。

 

 

 

最近の例で言えば、

「ブレイクスルー感染」。

 

日本語で「◯ク◯ン接◯後感染」と言えば、

多くの人が

「◯ク◯ン、効果ないやんか!」と

直感的にわかってしまいます。

 

 

 

昔から、植民地支配では

「同化政策」の一環として、

現地の人々に

宗主国の言語を押しつけてきました。

 

民族と言語は深く結びついているため、

言語を奪うことは、

その民族の精神性を

奪うことにつながります。

 

まさに、自分たちに「同化」させるための

方法なのです。

 

 

 

「わかりやすい文章のコツ」の一つに、

「外来語をなるべく使わない」

というものがあります。

 

日本人には、日本語を使った方が

直感的にわかりやすいためです。

 

コミュニケーションのプロで、

そんな基本中の基本は

当然知っているはずのマスコミや政府が、

なぜ外来語を多用するのでしょう?

 

 

 

やたらと外来語が使われているときは

「ごまかしにきてるな」と思って、

自分の中で日本語に置き換えて

考えるようにしてみてください。

 

そして、自分でも

つとめて日本語を使いましょうね。

 

冒頭のイタリア人作家が言うように、

そのことが、私たちの存在を

守ることになります。