明治天皇の謎 | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

実は明治天皇は大室寅之祐であり、本物の皇太子ではないという風聞があります。


私はこの事実を調べたくなりました。

{638ADCB6-C9A9-49CE-8ED9-2B8CDAA2A02F}

{05DE4C80-1D58-44FF-8DB0-598EF6814B07}

{BB663553-B904-4B05-9318-81F857A9131E}

{25BA1174-85BD-4472-9C0E-DE70A7B5FBF0}


明治天皇は伊藤博文が率いていた力士隊の隊士であった大室寅之祐と言う人物であり、

この男が本物と入れ替わっていたというミステリー。


現在でも強く支持する人がいる陰謀説です。


この大室なる人物は後醍醐天皇第11番目の皇子・満良親王の子孫にあたるとされており、

南北朝で敗れた南朝系の皇族の末裔と称していました。


つまり、南朝にシンパシーを持っていた長州藩が北朝系であった本物の明治天皇を、

南朝系の末裔である大室とすり替えたという説です。


明治天皇が大室であったとしたら、奇妙な状況証拠は多く、

睦仁親王は天然痘の予防接種をしたにも関わらず明治天皇の口の周りには天然痘に感染したアバタの痕跡がありました。


明治天皇はそのアバタを隠すために口髭を蓄えていました。


因みに明治天皇が即位後、天然痘にかかったという記録はありません。


明治天皇の生母である中山慶子の墓所に、

明治天皇や皇太后、皇太子は一度も参ってはいません。


幾ら高貴な身の上とはいえ、不自然です。

更に即位前は虚弱で小柄な明治天皇が、即位後は体重24貫を誇り、相撲を好んでとったと言われており、その変貌ぶりは異常です。


むしろ、庶民的な生活をしていた人物と考えられます。

明治天皇は自らの妻を ”皇太后”と呼んでいます。


”皇太后”とは父である孝明天皇の妻を指す呼称です。


何故、明治天皇は自分の妻を”皇太后”と呼んだのでしょう。

本物の明治天皇の妻であった一条美子に遠慮があった可能性があります。


明治元勲たちの明治天皇のへの態度も問題です。


伊藤博文は明治天皇が姿を現しても起立すらせず、西郷隆盛に至ってはわがままを言う明治天皇に「そんなことを言うなら昔の身分に戻しますよ」と一喝しています。


他にも西郷従道は、天皇が出した「台湾出兵延期」という方針を無視して出兵する程でした。


つまり、元勲たちは明治天皇に敬意を抱いてなかった形跡があります。


これは明治天皇は大室寅之祐が入れ替わった替え玉だ、と知っていたからとも推測されます。


明治44年に帝国議会で議論された「南朝・北朝のどちらが正統か」という議題に関して、


本来明治天皇が北朝系の天皇であるにもかかわらず、南朝が正統と決定されたことです。


明治天皇はそれを認めました。

南朝系であった大室寅之祐が明治天皇の正体ならば合点のいく話です。


また明治維新前駆時期に結構多くの志士が暗殺されています。

幕末英傑録」
暗殺された人物の名前が列挙されています

文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではありません
遭難地は京都です。

リストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前もあり、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に孝明天皇の名前が書かれています。

孝明天皇の暗殺説〜

 幕末から明治にかけての歴史の背景に暗殺された人物のリストについて

孝明天皇について掘り下げます。

{6456193B-D238-4AE5-8A4E-C2525C055E22}

{54127015-9088-416A-BE7F-89371809624B}



孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、
弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、
その次の天皇が明治天皇です。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、
孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、

文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっています。

また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、
公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望み、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになりました。

第二次長州征伐の勅命が下されるも、
坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。

慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、

戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、
大坂城で薨去されてしまいました。

第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わりその後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されました。

幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、
勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になりました。

{BDB275C7-22DB-40E2-981F-F34D6A60B22F}

{0E2FA531-3CBF-4B47-A4AF-10F07443B288}


上の肖像画は将軍家茂です。

家茂の死因は典型的な脚気衝心で、
ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されています。

家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、
脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいませんでした。

孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布しています。 

幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウ
「一外交官の見た明治維新」

{A06E11CF-1EEF-49AB-9682-87EFC4D2216F}

{D48018CA-06D7-4195-81AE-DEFEEE33551C}



「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 

アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。

この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。

そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。

反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、
期待する事は出来なかったであろう。」
と書かれています。

通史では病死説になっていますが、
毒殺説では一体誰が毒を盛ったかと言う謎が残ります

「戊辰戦争」
{A034D923-FE7C-4FE3-B590-1B72AC7E130C}

では、

『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定されました。

※毒殺です。

犯人について伊良子氏は言及していません
しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かび上がります。

洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、

親幕派の頂点孝明天皇です。
{EDD261B2-21FE-4BB4-BB70-8B5D1E871250}


岩倉自身は朝廷に近づけなかったものの大久保は公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていました。

直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかです。

岩倉具視
{E25FCE9D-B82F-4FE7-833C-31B76E254848}

{4CE987B7-FD65-40E4-9CEF-05854590BBC3}

と大久保利通が黒幕だとしています。



孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ですが

16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断され、
疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうです。

孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づくきました。

女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には

「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」

と書かれており、ほとんど平癒していたことになります

ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変しました

「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」

となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことです。

専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうです。

孝明天皇の病状は明らかにこれと異なりました。

疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、
伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べています。

「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。
この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」

「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」

と伊良子光孝氏が書いています。

「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、

それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ています。

当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できました。

しかし誰がその毒を盛ったのか。
そこには岩倉具視も大久保利通もいませんでした

京都御所には岩倉具視の近親者がいました。

孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いく、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性もあります。

{F74296F3-DF6A-40F2-A530-6DC372DED39F}