あるプロテスタント系教会の庭で子ども達が走り回っていた。
本当に食べるのに困っている家庭の子が集まっているのだろうか、子ども食堂という手作りの看板が掲げてある。まるで紙芝居屋さんが来たときのような、ちょっとした騒ぎになっていて、いつもひとけがない教会が一変していた。子どものうきうき、きらきらした雰囲気で、空気が跳ねているようだった。
大人は誰しも生活費を稼ぐため、体力の限界近くまで働いて、余暇も楽しむ精神的余裕も時間も、多くの人は十分には持ち合わせていない。稼ぐのにこんなに大変なのだからと、だれか困っている人のためにひと肌脱ごうという元気なひとが少ないのも当然だろう。
自分のことで精一杯な大人が溢れ返るなかで、こういった子ども食堂の取り組みが継続することは素晴らしい。役所や慈善団体はこういった組織にこそ、補助金を出してもらいたい。(決定権者にキックバックがある利権に群がる工事業者の構図など、本当に汚らしい・・・)
子どもって本来はこんなに素晴らしい、光の粒子のような存在なのだ。この光景を目にして、子ども達が「幸せだな」「楽しいな」と思うようなことを、大人が善意で見返りを求めずに提供してやっているだろうかとふと考えた。今の時代はそういったことが少なすぎるんだなと逆に気付かされた。
わたし自身も自分のことで精一杯で、空き時間があればなにか子ども達が喜ぶことをやってみようとは、正直言って思ったことがない。余暇は自分のためだけのものだと握りしめ、時間と労力とお金を使って自分を慰めているに過ぎない日常を送っている。
わたしは以前、有償ボランティアとして不登校の子に英語を教えるということはやったけれど、彼らが求めていないことを母親が求めていて、わたしたちはそこに偶然ボランティアで来てほしいと頼まれたものの、なかなか授業が成立しなかった。最初だけ目新しいだけ。何回先生を変えても、すぐに子ども達は来なくなってしまう。英語は彼らにとってはめんどくさいとしか認識されていない・・・。
学校の勉強は、本当につまらない。自分の経験から言って、自主的に取り組もうとすると、見えてくる景色はがらりと変わる。
ゲーム機やテレビやLINEのように、すぐに「快」の気分になれるような強い刺激は今の学校にはない。だから、子ども達には「不快」な状態でもあとひとがんばりで、踏ん張れる粘り強さを取り戻してほしいと願う。へぇ、そうなんだ!と知的好奇心でわくわくする気持ちを思いだしてほしい。
大人にはこんなことをお願いしたい。わたしも含めて、子どもが喜ぶことを公園でやったり、一緒に声をあげて笑えるような温かい雰囲気を作ることをやってほしい。わたしも経済活動はほどほどに、地域に光をもたらす小さなひとつの手となって、金銭とは関係なく動けるひとでありたい。
子ども食堂のように、空気が弾けてその地域に光が降りてくるような取り組みをどんどん応援していきたい。
不完全だった母親としてのわたしは、本当の親としての思いやりや愛情が決定的に間違っていた。いまも自分が育った環境のせいにするわけではないが、実感としてなにが正しい親の愛情なのかがわからない。
だから今は、英語講師としてどうやって大人として子どもに接したらよいのか、「間違い直し」の日々だ。大好きだった小学校1年生の時の担任吉岡先生みたいに、冗談を言って見たり、わざと膨れっ面をしてみたり、教え込まずに音読を繰り返させたり。特別支援学級ではポケモンゴーの遊び方を生徒に教えてもらったり、たわいもない話でゲラゲラ笑って過ごす。まずは大人に受け入れられたと安心させて、不満を吐き出させてストレスを発散し、心を開いてもらう。笑って笑って元気になるのが先だ。
この命が続く限り、Try & Error どんと来い!
ゴールはまだまだ先だ。
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