活気づく興亜観音

熱海にある興亜観音が活気づいている。言うまでもなく興亜観音は東京裁判で南京事件の責任者として処刑された松井石根大将が建立している。

 

松井石根は軍人になると主に中国関係を歩み、青木宣純中将、宇都宮太郎大将の系統を引く中国専門家として知られるようになり、松井の系列を引く軍人には原田熊吉中将や和知鷹二中将たちがいた。また、松井は孫文の説く大アジア主義に共鳴、日本と中国は手を携えていかなければならないという信念の持ち主であった。

 

昭和12年8月に上海派遣軍司令官に就くと上海を平定し、10月には中支那方面軍司令官に就任して南京を攻略した。しかしこの4か月にわたる戦いで日本軍は4万数千人という予想もしない犠牲者を出し、中国軍はそれに数倍する犠牲者を出した。松井大将は武人として戦うのにやぶさかではなかったものの、大アジア主義者としての立場から、日中の兵士の霊をそのままにしてはおけなかった。

 

昭和13年2月に凱旋帰国するが、やがてその思いは兵士が斃れた上海や南京の土を使って観音像を作って回向するという形になった。このとき松井は、兵士たちの犠牲のうえに日中友好が築かれるはずという思いから、観音像を興亜観音と名づけた。

 

こうして大きい露仏の観音像と小さな観音像が作られ、熱海の鳴沢山に祀られることになった。これが興亜観音である。興亜観音を守るため、昭和17年には興亜観音奉賛会が作られ、松井石根が総裁、熱海市長が会長に就いた。

 

しかし、敗戦になると、松井が東京裁判の被告となり、さらには絞首刑となったため、また熱海市は興亜観音に関与することが禁じられたため、興亜観音奉賛会は有名無実となる。

それでも松井大将と関係のあった人たちを中心に弧峯会や興亜観音を守る会などが作られて興亜観音を守ってきた。

 

松井大将と関わりのある人がほとんどなくなった数年前から、興亜観音奉賛会が設立された原点に戻ろうという動きが出てきた。当初、熱海市長が会長を務めていたように興亜観音がある静岡県の人々で守っていこうという動きで、熱海市の人たちを中心に住職の伊丹妙浄尼の法話を聞く会などが開かれはじめた。

 

昨年12月23日には新たに14名の理事が選ばれたが、10名は静岡県の人たちで、そのうちの1人として静岡県選出の渡辺周衆議院議員が選ばれている。

 

また、「怨親平等」をもっと知ってもらおうということも決まった。

 

「怨親平等」は仏教用語で、敵も味方もわけへだてなく回向して成仏を願うという意味で、松井大将は興亜観音縁起のなかで使っている。この言葉は鎌倉の円覚寺でも使われている。北条時宗は元寇で斃れた兵士を敵味方分け隔てなく弔おうと円覚寺を建立したからで、今年になって興亜観音と円覚寺が「怨親平等」をもっと知ってもらうため手を携えることも決まった。

このようなことが続き、ここ10年のあいだ見られないほど興亜観音が活気づいている。