なぜ、不登校についての記事を書くかというと、少なくとも読者の皆さんには不登校が日本社会を破壊する時限爆弾かもしれないということを考えてほしいから。

 

社会規範という視点からすると「学校にいかない」のは変なことなのに、なぜそれがあたかも権利のように扱われているのでしょうか。

 

私はおかしいと思います。

 

継続して不登校についてかんがえているのだけども、まずはこれを読んでほしいと思います。

 

 

 

 

現在、多くの地域でフリースクールに補助制度を通じて税金が投入されています。

 

私塾とは異なり、税金という国民由来の資金が投入されているわけですから、フリースクールにおける教育内容についても、私立学校と同様の一定の制約が課されるべきという主張は不自然ではないと思います。

 

少なくとも、主要科目については、指導要領に沿った教育が実施されるべきです。

 

 

 

この組織は、「不登校の子どもの権利宣言」として、「私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。」と主張しているのですが、論理的飛躍があると感じます。

 

①私たちには、教育への権利がある。

→ 学校という教育の場が用意されています。そこに通って権利を行使すればよいと思います。

 

②学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。

→ 権利を主張し行使するのは構いませんが、結果として受ける不利益は選択の結果ですから甘受すべきと思います。

 

③義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。

→ 義務教育は、学校教育法第二十一条に「義務教育として行われる普通教育は、(中略)次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」とされていて、以下の通り明確にされています。

 

一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 

二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 

三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。

 

五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。

 

六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 

七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 

八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。

 

九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。

 

十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

 

 

現行の学校制度を頭から否定するということは、教育制度が戦後日本の在り方から憲法に定められたことを踏まえると、日本国の体制そのものの否定です。

その点から、東近江市長の「国家の根幹を崩しかねない」との発言は、妥当と評価できます。

 

行政の長の立場として、無法地帯と言っても差し支えないフリースクールへの公金投入をためらうのは、極めて自然なことと思います。