天賦人権論・自然権思想の弊害 | 名無しの唄

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天賦人権説とは、自由・平等・幸福追求は、天から人間に与えられた不可侵の権利であるという思想である。
自然権思想とは、人権は人間が自然状態から生まれながらに持つ不可譲のものであるという思想である。
これらの思想は、現代日本においても、憲法に人権が「侵すことのできない永久の権利」であると明記されることで継承され具体化されている。
これらの思想は、近代における様々な変容の原動力となり、その結果としての現代が、全ての人間が幸福追求を達することを、少なくとも目標する世界となることを可能にした。
これらの思想は、その位置付けと役割により、教育によって全ての人間に浸透しているだけでなく、種々の表現によって重大さを再確認され続けている。

これらの思想は、しかしながら現代に至って、いくつかの問題点を生み出している。
ここではそれを、大きく二つに分けて考えたい。


一つは、具体的運用の度外視という問題である。
最初二つの発想によって、人権はいかにも、守られている状態が自然であり、守られないのは不自然である、というものであるかのように考えられる。
しかしながら、それは現実的運用の次元においては嘘である。
人権として語られる内容の多くは、人間の文明的進歩を前提に形成されるものであり、つまりは自然状態に比して非常に贅沢な質の内容なのだ。
理念において、人権は自然であり当然であると位置づけられるが、現実的には、人間が非欲求的な努力を積んでようやく保持される内容である。
人権論は、しかし多くの場合この点に無頓着であり、それゆえに努力の方の価値や評価、必要性を無視して、その主体となっている人員の反感を買ってしまう。
また要求するだけ要求すれば、達成されるのが当然自然であるという感覚を持ってしまうために、そもそもその要求された人権を達成するための元手をどこかで調達せねば不可能であるという視点を欠く。
人権は天賦・自然のものであるという感覚が拡大した結果、現実段階における人権を内包した遣り繰りの議論や、それをめぐる感情や関係性が、人権保護に対して返って不健全な位置に追いやられてしまっている。

今一つは、新規の人権、という発想の欠如である。
人権は、事実的内容を考えれば、人間の文明的進歩に従って暫時的漸次的に発想されてきた要求に、最低限という区切りをつけたものである。
しかるに、時代が進み、人間が移動や増減を経ていけば、その内容には変化が生まれるだけでなく、人権の項目自体にも追加などが出てくるのが当然なのだ。
しかしながら、人権を文明以前の人間の要素として考えてしまう結果、新しい人権の検討という議論自体が不可能になっている。
つまり、新しいそれを人権として打ち立てたい人間からすれば、発想したその時点ですでに「達成されていなければならないもの」として意識されてしまい、未だその権利を未だ知らない者に対して説明するという段階を抜かして、要求を始めてしまう。
あるいは「新しい人権」を新しいものとしては打ち立てず、既存の人権を拡大解釈することで無理くり組み込もうとすることになり、既存の枠組みに満足し安寧を獲得している大衆がそれに納得することは無い。
余りにも自然であり、余りにも当然であるものとして人権が語られているために、その時代的な相対性、そして追加にまつわる議論の可能性と必要性が無視されてしまっている。

自然権的・天賦人権的な人権観は、人間社会の流動性に比して余りにも不器用なのだ。
勿論、あらゆる体制や制度、仕組みにおける理論の、最奥の根源として人権を位置付け、そこから全ての理論を紡いでいくという方法論は正義として間違いないだろう。
人権とは、ところでただの目標ではなく実現のみが許されるものであり、それゆえに現実的な作戦を、人間の努力を順当に循環させることをもって構成しなければならない。
また人権とは、あらゆる理論の最奥であるが、しかしそれ自体が絶対的不変のものではなく、内容や項目に時代的変遷が要求されるものとして自覚されなければならない。
人間社会が、本当に全ての人間の幸福を達成するためには、むしろ殊更に硬化した人権観こそ疑問を投げかけられるべきではないだろうか。

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