未来の姿と現実の姿(ニュースに依り再掲) | 名無しの唄

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今年(2012年)8月9日、長崎に行きました。
毎年この時期になると現地に、と思いながら行けなかったけれど、初めて被爆の地に行き、犠牲者慰霊・平和祈念の式典に行ってまいりました。

「平和への誓い」において、犠牲者代表の方は肉声で当時当日の体験を語っておられました。
自分がどうしても式典に行きたかった理由の一つがここにあります。
考えたくないことではありますが、被爆67年。その体験を肉声にて聞く機会は、減っていくでしょう。
心身の強烈な痛みに苛まれた経験からくる本物の平和・人権への願いを受け取る機会を頂いたことを、感謝しています。


そしてその日その場で見たもう片面の光景を、怒りのような悔しさのような強烈な感情とともに、私は忘れることができません。
それは、ハングル文字の名札をつけた数十人の団体が、談笑しながら道に広がり、追悼と祈念のシンボルの前で巫山戯たポーズの笑顔の写真を撮り、式典後の平和祈念像前広場に入ってくるなり満面の笑みで手を振って大声で「アニョハセヨ」と言う姿でした。

自分は一人の人間として、また人文学・歴史学を学ぶ身として、人間を所属地域や国家、人種などで容易に典型化する視点は嫌いです。
また何よりも、世界平和と人権尊重を訴えるべき被爆の地において、そのような感情に至ってしまった自分を、どうしようかとどうしようもない気持ちです。

自分は歴史学を学んでいる人間です。同時に、第二次世界大戦や朝鮮半島史は専門でありません。だから、日韓関係において問題とされる諸事の有無や程度に無闇な意見は出せません。
しかしながら長崎での彼らの態度を見たとき、そこに悲劇の体験とその上に然るべき脱悲劇の希求は見られませんでした。

肉声で語られ画像で示される理不尽で凄惨な死の瞬間があります。
その時に犠牲者に対して、死んでしまってもなお、むしろ死んでしまったからこそ、「人権」としての尊厳尊重を、と思うのが人の情です。
奪われた命を無下にしたくないというそれは、思想形成よりも前、憂いと願いにあらわれます。
第二次世界大戦に、原子爆弾に、あってしまった歴史に強いて積極的意味を持たせるのであれば、犠牲者の生命の尊厳は未来我々の憂いと願いにおいてしか保つことはできないと思います。

人の命を基準にした悲劇として戦争を描くとき、その感情を心に取り込んだとき、戦争や戦争体験、体験者に対するいかなる侮辱も起こりえないはずです。
看過も憶測も偽装も喧伝も、悲劇を知った心からは出てきません。自分の心の中で、それらを許さないはずです。

爛れた子を抱く女性の像の前で、旅行気分の笑顔の写真を撮っていく、そのままの心を変える気がないのであれば、その連中には過去の戦争を口に出すことも未来の平和に身を置くことも、その資格がないと言わざるを得ません。


追悼と祈念の場において典型化的差別意識にいたってしまった自分を深く戒めるとともに、戦争で蹂躙された犠牲者の魂が、二度とないがしろにされることがないように、強く願います。


韓国紙「原爆投下は神の懲罰」に「ヘイトスピーチだ」
 韓国の中央日報が、日本が原爆投下されたことについて「神の懲罰だ」とする記事を掲載し、波紋を呼んでい..........≪続きを読む≫


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