歴史学の約束 | 名無しの唄

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歴史学は、世界各地古代の王朝から存在する記録様式である。
昔、その主眼は事実の発掘にはなかった。
前時代を否定し、今時代の支配が如何に正義正統のものであるかを語ること。
これが歴史を記述する目的であった。

それはごく最近まで続いた。
帝国主義と平行に伸長してきた歴史学は、進化論の拡大解釈と関連が深い。
すなわち、“文明”が良し、“野蛮”が悪しという、世界を単一直線上に押し並べた上で、西洋列強各国の勢力拡大、なかんずく植民地経営を正当化する思想と連結していた。

そして、それらはもう古い。
第二次世界大戦後、民族主義ナショナリズムの主張が起こり、世界は多様性・固有性の並立で描かれる地図になった。
歴史学においては、事後的・恣意的な指向性設定を阻み、時代毎特有の真実の存在がその内容になっている。
民族的固有性の認可に時代が追いついている限りにおいて、歴史学は真に真実を探求しうるところに来ているのである。

歴史学に携わる人間が、自らの思想・理念を捨てているわけではない。
歴史学の成果としてなされる論文の中には、歴史上の新事実と現代との関連性を説くものもあるし、歴史上の事実人物を現代と比較して現代に対する意見をなすものもある。
しかしそこでは常に、第一義には実証主義的な歴史学検証が添えられており、史料の探索・検証と理論の構築・推敲が最重要視されている。

そこで、歴史学が真実を探求し、その延長として現代的意義や主張を持つものであるならば、必ず守られなければならない約束がある。
それは、研究の過程と成果において、学者が嘘を言わないことである。

もちろん、それは歴史学に限った話ではなく、学問全般において当たり前であろう。
しかしながら、人文学は特に、恣意の介入を許しやすい。理論先行、つまり時には理念先行あるいは理想先行で研究を進行させることができてしまうからだ。
まして歴史学は、学問としては旧弊思想を脱し真実の追求にあたっているとは言え、現代に続く社会問題に直結している部分が多々ある。学者以外は、むしろその側面を持って歴史学を期待しているかもしれない。

そこにあたって歴史を記述せんとするとき、真実の記述を看板に掲げながら、それが達成されない可能性がある。
それは、学問の発展において害をなすというだけにとどまらない。
先述のように、歴史学の真実探求が民族的並行平等理念と関わっている限りにおいて、歴史学の歪曲は世界観の差別的再編成にかかわらざるを得ない。
恣意に束縛される歴史学は、その歴史学と関わる民族を貶める。

たとえ、数千年を被支配の歴史であったと明かされたとしても、それが誠実に証明された真実であるならば、民族平等の理想を掲げる現代において胸に秘め、矜持を持って世界に表明すべきものであろう。

未だ前時代の政権正当化歴史学に傾倒するのであれば、むしろ民族的栄光は遠のいていく。

領土問題や社会問題には、私自身必ずしも明るいとは言えないが、歴史学を学ぶ身として、事情によらず歴史の恣意的歪曲が認められる自体を許したくはない。

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