昨日が誕生日だったという作曲家伊福部昭氏(2006年没)。

 

『自己に忠実であれば、必然的に作曲家は民族的である事以外にありようがない。

自らの民族の特殊性を踏まえずして、普遍的な芸術に到達することはできない。』(お弟子さんである藤田氏の文章より引用)

『民族の特殊性というものを通過して、共通の人間性に到達しなければならない。

そうなったものだけが芸術として残っている、というのが僕の信念なんです。』

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010398_00000

 

この2つの言葉がとても心に響いた。

 

先月開催されていた北中正和氏の『世界の音楽と人権』という特別講義。

毎回幅広いジャンルから勉強させて頂いた。最終回の昨夜は、エジプト、アフリカ、キューバ、ジャマイカ、パレスチナ、ロマ、サーミ、アイヌ、琉球など

世界各国のまさに『民族性』アイデンティティーの保守をテーマにした様々な

音楽を聴かせて頂いた。

 

国立新美術館で開催されている『ミュシャ <<スラヴ叙事詩>>展』。

こちらも民族への回帰である。

彼を一躍有名にしたアール・ヌーヴォーのポスター。これらは生計を立てるために描いており、後に彼自身の言葉で「なんと自分は時間を無駄に使っていたのだろうか」と語ったそう。50歳のときに故郷チェコに戻り、晩年の約16年間(1912-1926)を

捧げた渾身の約20点の作品は今まで知っていたミュシャの作品と全く違い、圧倒されるほど素晴らしかった。ミュシャのイメージがガラリと変わりもっと熟視していたかった。

 

1919年に初めて<<スラヴ叙事詩>>5点が発表された当時は、時代に合わず全く評価されなかったという。そしてその後ほとんどの人の目に触れることがなく、ミュシャ(1860-1939)没後約70年、2012年にやっと作品が見直され、世に出るようになった。たった5年前とは驚きである。

 

やはり音楽にも共通する事だが、ただ美しい、ただ楽しめるという表面的ではない、もっと奥深い晩年の作品は圧倒的芸術領域に達しており(もちろんアール・ヌーヴォーも大変素晴らしいですが)、今後もっと世界中の多くの人々にミュシャの悲痛な想い、メッセージが届いて欲しいと願った。

 

映画『ヨーヨー・マと旅するシルクロード』もまさに民族に回帰する、ルーツを探す旅がテーマであり、様々な歴史・政治的背景を持つメンバーを追ったドキュメンタリー映画である。「音楽は銃弾を止められないし、空腹も満たせない。芸術とは何か?」とシリアのクラリネット奏者キナンは問う。私も9・11や震災以来常に問いかけてきた。音楽は確かに空腹は満たせないが、心は満たせるのではないだろうか?絶望した、まさに生きようとする力が湧かない極限状態の時に、音楽は心の「食べ物」となり、生きたい、生きようとする力を与えてくれるのではないか、と今は思っている。「自分は何者で、どう世界に適応すべきか。世界の70億人の人々も私に共感してくれるはずだ」とヨーヨー・マは語る。

 

因に、この映画に私の最新CDに収録したMarielの作曲者、Osvaldo Golijovやパーカッショニストの藤井はるかさんが登場されていて、また懐かしいボストンの風景も沢山映り、個人的にとても意味深い心に響く作品だった。しかし、4歳の頃の夢が「世界を理解すること」だったと語るヨーヨー・マはやはり逸材だ。

 

「グローバリズム」「民族の自立と平和」といったテーマ、なかなか終焉は見えない。これもまたネイチャーなのか、と汎神論的な考えに陥る。