ここは、、海抜16.5m
絵の描かれた建物が見えてきた![]()
続く。からです。
、、、大師のこうした事績、素晴らしい感性、並外れた文章力が、
私たちに何をお示ししてくれたのであろうか。
私たち一人ひとりが目覚め、悟るにはどうしたらよいのか。
大師は、その根本となる考え方を、懇切巧みに説き、より広く
より深く究めることを勧めている。
以下、その要点となる九項目と、坂井探空師が掲げられた「五信条」
について要約してみる。
四、四種曼荼羅 曼荼羅を表す四つの方法として、やはり『即身成仏義』
に説かれている。一は「大曼荼羅」。仏・菩薩の形を図絵にしたもの。
二は「三昧耶曼荼羅」。諸尊を象徴する持物、たとえば刀剣、輪宝、
金剛杵、蓮華などの三昧耶形を描いたもの。三は「法曼荼羅」。諸尊の
種子、梵字をかいたもので、種子曼荼羅ともいう。四が「羯磨曼荼羅」。
諸尊の威儀を示し、仏・菩薩を彫像であらわしたもの。
仏・菩薩が秘めているもので、言葉や文字だけでは理解できないもの
を、目に見える形や色、動きなどから感得でき、全身で感じることがで
きるのがこの四種曼荼羅である。もののあらわれ方を見極める目やす、
ともいえよう。
五、三密、、、、。(次回に。)
(四国八十八ヶ所霊場会 先達経典より)
空海様、弘法大師様が、真言密教の第八祖として、唐の恵果阿闍梨より
受け継いで持って帰って来てくださった、密教そして、天地宇宙の教え。
その中に、真言宗のお寺ではよく見ることのできる、曼荼羅があります。
教えや仏を伝えることに、空海様が言われます。
東映映画『空海』のなかで、理趣釈経を借りに来た最澄様、、
最澄様は、経典を、読み・写し・学ぶことにより、仏の教えを悟ることが
できると言われます。
お大師様はこう、こたえられます。
「ものを伝えることは、文字だけではない、、
言葉・色・からだ・五感の全てをつかって、やっと伝わるものです、、」
「私の密教は生きている。生きているものは筆で写すだけでは伝わらないのです。」
「御覧なさい、、この曼荼羅の世界を、文字でしるすことができますか、、」
「仏がこの世にいると感じるのは、言葉によってではない。」
東映映画・空海より
言葉・色・からだ・五感の全て、、を用いて、感じ取るものなんですね。
空海様・弘法大師様は、曼荼羅を、姿や、持ち物、梵字だけでなく、京都の東寺の
ように、更に立像を並べ、仏像の立体曼陀羅を見せてくださった。
いろんな姿で、見えない仏の世界を、教えてくれている。
南光坊に向かう遍路道、、祭りの大切なものを納めているように見えます。
建物に、神輿と、三段・四段の継ぎ獅子の絵が描かれている。
↓今治市のホームページ(イベント情報)
今治地方春祭り | イベント | 今治市 (city.imabari.ehime.jp)
建物の裏に顕彰碑
越智孫兵衛通勝翁、そして、越智熊太郎三渓翁
↓54番延命寺の境内に、越智孫兵衛様の墓があったな、、
越智孫兵衛通勝翁の石碑
越智孫兵衛通勝翁は寛文年中野間郷縣村の初代庄屋な
り、当時は徳川幕政下で農民は生かさず殺さずの施策
でその年貢上納制度も七公三民と非常に苛酷な搾取方
法で農民の日常生活は筆舌に表せない貧窮の極に達し
各地で農民一揆や直訴が続出しその都度有能な人々の
犠牲のみに終り何等得る処無く権力の前に屈従を余儀
なくされていた。翁は村人の悲惨な生活状態を救わん
と一計を立て折よく施行された松山藩の池普請に藩庁
より各村に対し人夫の差出しを命ぜられた際村人を集
めて孟宗竹の筒を渡し明日は之に麦の粥を入れて弁当
として持参するよう申し渡した当日昼食の際他村の人
人は大きな柳行李の弁当を開き食せし中で縣村の人々
は竹の筒から麦の粥を飲んでいた巡視中の松山藩普請
奉行が之を見て酒を飲んで居るのかと翁を呼んで厳し
く咎めた翁は臆する事なく平素は稗の粥を常食にして
いるが藩の御普請の為本日は特に麦粥を持参している
旨申し開きをし具に村人の日常生活の苦境を説明した
奉行も翁の誠実さに深く感じてか追って沙汰するとし
て帰藩した後日松山藩主久松公より七公三民の年貢上
納を特に縣村に限り以後六公四民に免下げする旨の裁
許を得た。翁多年の悲願であった農民救済はこうして
一人の犠牲者を出す事もなく達成された村人の喜びや
如何ばかりか後年全国的な享保の大飢饉に他村は多勢
の餓死者を出したが縣村の人々は翁の献身的な努力の
恩恵に浴し犠牲者を出す事なくこの飢饉を脱した事に
伊予義人伝に明記されている通りである。その他翁は
終生村人の生活の向上と福利の増進に意を注がれ数多
くの功績を残し元文三戌午年四月二日天寿を全うされ
た。𣳾然廊道居士位 以後村人は報恩の念去らず毎年
七月七日墓前に参拝して法要を行い不朽の功労に感謝
を捧げ宴福を祈っている。此度村人相集いて談合して
碑を建立し郷土の救世主庄屋孫兵衛翁の遺徳を偲びて
の偉大な功績を永遠に讃える次第である〈判明せる資
料に基く〉
昭和五十一年八月吉日
旧野間郷縣村
現今治市阿方 部落民一同
越智熊太郎三渓翁の石碑
越智熊太郎三渓翁は明治十一年八月三十日野間郷縣村
第十三代庄屋越智今次郎の息として生れ幼少より温厚
高潔思慮深く特に向学心強く明治十八年三月縣村八代
尋常小学校に入学更に今治高等小学校を卒業明治二十
八年七月波方尋常小学校教員拝命明治三十五年愛媛師
範学校本科を卆業以後弓削伯方大井各尋常小学校の校
長として子弟の訓育に教職員の指導に専念され特に次
代を背負う子弟教育の為優秀な教職員の必要性を痛感
され明治四十二年その職を辞し先輩同志と相回り越智
郡亀岡村に伊予教員養成所を設立推されて初代所長に
就任昭和五年十二月後進に道を譲る迄実に二十有二年
間教育者の育成一途にその情熱を傾け後年翁の薫陶を
受けた優秀な教職員が広く全県下に活躍された事は見
聞亦新たな処である。翁は又深く郷土を愛しその歴史
文化等の研究を続け明治初年に発見されたま〇の貝塚
を昭和十六年に至る間四回にわたり発掘調査をされて
の結果約三千年前弥生前期の遺跡と確認されその出土
品は阿方式土器と命名され現在広く考古学界に重視さ
れている昭和二十三年十月十八日愛媛県史跡に指定さ
れた阿方貝塚がそれである。又太平洋戦争末期昭和二
十年近見山延命寺の梵鐘が軍当局の命により戦用資材
に供出を強要された際郷土の歴史を物語る重要な文化
財であると翁は敢然としてその実情を訴え身をもって
軍当局の要求を拒否し由緒ある梵鐘を官憲の手から守
り現在迄保存されている事は村人の記憶も亦新な所で
ある。後年は乃万村役場吏員として村行政に青年団消
防組の育成に更に晩年は方面委員として社会福祉の向
上に専念されその間乃万郷土誌九十七巻を編さんされ
た等数多くの功績を残し昭和三十四年八月六日郷土の
発展と文化財の保存を念じつゝ八十三歳の天寿を全う
された偉大なる郷土の先覚者越智熊太郎三渓翁に村人
相集い感謝の一碑を建立してその功績を永遠に讃える
次第である。
昭和五十一年八月吉日
旧野間郷縣村
現今治市阿方 部落民一同
↓石碑に刻まれている、延命寺の
軍当局の命により戦用資材に供出を強要された梵鐘の『近見次郎』
↓梵鐘『近見次郎』、、郷土の歴史の証人
大切な文化財
越智熊太郎三渓翁が守った。
この、地域の大切な場所も、越智熊太郎三渓翁が寄贈されたと、、
地元を郷土を愛した越智家の翁樣
江戸時代に、苦しむ農民を救った、越智孫兵衛翁樣
その越智家の、越智熊太郎三渓翁様
人を愛し、郷土を愛し、守られた。
その、精神の中央に、、真ん中には、何があったのだろう。
この時、この瞬間、、、心を決めて、行動できる丹力。
学ばせていただき、、ありがとうございます。
小雨の遍路道、、偉人の話を見聞きして、歩き出す
ここに石灯籠
神様の名が刻まれている。
灯りをともし、、心の中も輝かせる。
この世界も輝かす。
小さな自分を知る。
決断しないといけない時に、逃げてばっかりで、、
言い訳ばかりして、、
、、逆に悪いことまでして、、
恥ずかしい人生を生きてきた、、、、、
そんな自分を知っている。。
偉大な人の石碑や、遺された、遺跡を知った。。
教えも聞いた、、。
どう生きたらいいのかは、子どもの方が知っている。
それを出来ない自分。
歩こう、、しんどくても、、歩こう。
、、、言い訳野郎のばか!!!
僕は、恥ずかしい。
坂を登り、、仏様に出会った。
続く。













