令和6年4月19日(11)鴻乃山 鎌大師③ | お遍路 の記憶

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風鐸を見た、、

風が運ぶ悪いものを、音で清めるという。

魔除けの音、、ここは聖域。

『音』とは、、。

続く。からです。

大師堂右前の修業大師様

脇にも、、

大師堂の左側には、不動明王樣と二童子樣

大師堂下、、

以前の蟇股ですね。

大師堂の横には、観音様の御堂

前に、子どもを抱く慈母観音様

観音様の御堂の横は古墳です

『十八人塚 入口』


古墳内部に、戦に負けて自刃した立烏帽子城主の赤橋重時と

従者18人は、この塚に葬られたという。

托鉢や、、

昭和五十二年仲秋と、、

石碑が建てられています。

説明書きが欲しい

明治三十年、大阪商船会社三光丸 誤興 日本郵船会社尾張丸

愛媛県温泉郡難波村下難波之海、、

海難事故の碑だろうか、、検索すると、愛媛県生涯学習センター

 データベース「えひめの記憶」が出てきました。

 

愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」には

〈汽船三光丸の沈没〉 明治三〇年二月四日午前四時二〇分ごろ、風早郡難波村大字下難波字大浦の波妻ノ鼻沖合東北約二・二㎞の海上で、大阪商船会社所有の汽船三光丸(一九八・九六t)が、日本郵船会社所有の汽船尾張丸(六五六t)と衝突、沈没した。この海難事故は、酷寒期の暗夜であったことや尾張丸が三光丸の非常汽笛を感知せず救助活動を行わなかったため、乗客・乗員九三人のうち、六三人が死亡する大惨事となった。
 県警察では、三津浜警察署長が警察船第三愛媛丸で現場に急行し、沿岸住民の協力を得て生存者の救護と遺体の収容に当たるとともに、相手船の捜索を手配した。この事件は、松山地方裁判所で審理され、責任は三光丸船長にあるとされ、過失殺及び航行規則違反の罪で罰金一〇〇円の判決がなされた。なお、二月一八日、天皇・皇后両陛下から遭難者の遺族に対し、救恤金三〇〇円が下賜された。

と、あります。

古墳の横です

延命地蔵様と、お墓のようです。

お墓には珍しく、、句碑が建てられています。

墓の横に文字が刻まれています

平成廿三年一月十六日逝去

   俗名 手束絹子

      享年一〇三歳

 

この鎌大師の庵主だった手束妙絹尼様のお墓ですね。

お会いしたかったな。

いにしえのお坊様のお墓も建てられています。

優しい風が吹く境内