↓古いノート記録の書き出し、歩き遍路2度目・区切り打ち
最初の日のリンク。
↓歩き6度目 区切り打ちスタート(現在進行中)
ノートの記録があるので、参考に書いていきます。
ノートは20年も前の僕の言葉です、、、。
注:もちろん写真のデータは古いです。
写真が少ないので、新しい遍路の時の写真も、借りています。
農地の間を行く、、
建物が見えてきました。
国道側の道には、石碑が建っています。
そこを入ると、佛海庵に行けます。
佛海庵到着。
続く。からです。
仏 海 庵
僧仏海は、宝暦十年(1760)四国霊場巡拝の途中、この
地に飛石庵を建て地蔵菩薩を刻み、巡拝遍路の難を助けると
共に、廃寺の安勝寺を再興し、法燈の為に尽くした高野聖で
ある。
仏海は伊予国風早郡猿川村、現北条市の生まれで少年の頃
出家し高野山で修行し、全国の霊場を廻り菜食に水を飲む木
食僧仏海として各地で地蔵像を彫り、その数三千体に達した
といわれる。
明和六年(1769)この地で没した。
庵には、仏海が建立した宝篋印塔 一基あり中に僧の石像
が納められている。また付近に四体の地蔵が残っている。
室戸市教育委員会
番外霊場 佛海庵
佛海(1700-1769)は諸国行脚、霊場巡礼を続け、宝暦
十年(1760)に淀ヶ磯浦の難所に来て入木に留り、地蔵
菩薩の石像を建て飛石庵や佛海庵を建立。廃れていた安勝
寺を再興するなど、法のために尽くしたので近在住民の信
奉帰依する者多かった。難渋する遍路の援護にも功績があ
った。
上人は生涯に三千体の佛像や地蔵を作ったといわれる。
「木食仏海」の署名がある。東洋町付近では「夫婦岩地蔵」
「跳ね石地蔵」「飛び石地蔵」等が点在している。里程も
刻まれ、しるべ石にもなっている。
佛海上人は、多くの業績を残し明和六年(1769)入木にて
入定された。行年七十歳。現在も入木には佛海庵と彼の墓
(宝篋印塔)があり、毎年供養祭が行われている。
(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)
佛海庵
佛海は伊予北条氏の生れ。宝暦十年(1760)この地に駐錫
し、佛海庵を起して 淀ヶ磯難渋の遍路を救い 衆生教化に
尽した 宝篋印塔を建て、明和六年旧十一月一日塔下暗室で
即身成佛した。 七十歳 生前全国霊場を巡り修行して木食
の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊
像彫刻三千体に達したと云ふ。
木食仏海上人様
大変な修行をされ、人々を助け教化し、、即身成仏された。
この下、、塔下暗室に。
その宝篋印塔
2005年時は、傍まで行けたが、今は囲いからは入れないようだ。
今も、、ここに祈られている上人様
宝篋印塔脇の仏様 2005年時
↓2018年の佛海庵内部
とってもきれいになっていた。
↓2018年時、佛海庵より覗き見る
堂内に掲示されていた古い巡礼地図
昭和の時代と共に廃刊となった「同行新聞」
法海上人堂についても書かれている
佛海庵について、、。
木食仏海上人造立のお地蔵様、、について
地蔵の鼻、、、?
飛び石の地蔵
地蔵の鼻の岩に、飛び石地蔵様があったんだ、、、
地図にも書かれていたのに、、、見ていない。
通り過ぎた、ここだったんだ。
次は、行かないと💦
即身成仏された木食仏海上人様が眠るこの地
佛海庵
四国の遍路道
祈りの場
続く。
























