今回の法語である。


 『 恋しくば
   南無阿弥陀仏
   唱うべし
   母は
   六字の内にこそ
   住め
        道場六三郎
  』



 これはテレビ朝日の「グレートマザー物語」の2004年10月24日放送分『道場六三郎の母~恋しくば南無阿弥陀仏と唱うべし~ 第159話』で紹介されたものだ。再来週の「母の日」用に用意しておいたのだ。正確には道場六三郎の母・つるの作だが、見る人のインパクトを考えて、あえて道場六三郎の名前を出した。以下に番組のHPを紹介する。

『 道場六三郎:1931年、石川県の山中温泉に、6人兄弟の末っ子として生まれる。19歳の時、料理人になるため、両親の反対を押し切り、上京。その後、神戸、金沢など包丁一本で渡り歩き、1971年「ろくさん亭」を開業。“素材を成仏させる”という信念を元に繰り広げられる道場の技は、訪れる人々の舌を魅了し続けている。

感謝する心を大切に
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」六三郎の母・つるが信仰していた浄土真宗。生前の母は、家の近くにあるお寺に通い、法話を聞くことを唯一の楽しみとしていた。信仰深い母は、あらゆる物事に感謝する心を大切にした。「食材を無駄にしない」六三郎もまた、そんな母の影響を受けて育った。旅立ちの日、母が六三郎に贈った言葉は「恋しくば南無阿弥陀仏唱うべし、母は六字の内にこそ住め」。六三郎は母の言葉を胸に、旅立つのだった。

厳しかった父・しかし母は…
 六三郎の父・友吉は漆職人として腕をならした人だった。母・つるも職人の下仕事をして、家計を支えていた。友吉は漆の仕事を拡大していくため、家のお金の管理は全て自分が行っていた。そんな中、母は豆腐ひとつ買うのにも友吉にお伺いをたてないと、お金を受け取ることが出来なかった。厳しい暮らしの中でも母は不平不満を洩らすことなく、感謝しながら耐えしのぎ、働き続けるのだった。

母と東京見物
 東京・赤坂の料亭で働いていた六三郎は、度々故郷から母を呼び、東京見物にでかけた。しかし、出しゃばることをしない控えめな母は、六三郎が働いている店には生涯足を踏み入れることはなかった。そして、1971年、母はこの世を去ってしまう。それは、六三郎の店「ろくさん亭」が開業する直前のことだった。

久し振りの帰省で母を想う
 久しぶりに故郷・山中町を訪れた六三郎は姉たち3人と再会する。六三郎の帰りを待ちわびていた姉たちは、母の思い出の料理で六三郎をもてなそうとする。はりきって台所に立つが、てんやわんや。作る料理は“すこ”というサトイモの茎をつかった料理を始めとする品々。姉たちの包丁さばきに見かねた六三郎も台所へ向かう。「全ての命をいただいている」感謝の気持ちを最後まで忘れなかった母・つる。その気持ちは六三郎をはじめ、家族にもしっかりと受け継がれている。』