記事がやたらと長い上にところどころ

おかしなところがあったので再編集した。

以下が以前(記事公開当時〜2021/05/09)までの内容です。

もし興味があれば、どうぞ。↓

過去稿

本当にただただ長ったらしいので興味ある方だけどうぞ❤️

 

(注釈)わかる方は多分わかると思いますが、この記事を書いている当時はレベルファイブブログでゲーム制作が滞っている理由にファンからの批判でモチベーションが下がったという旨の分がありましたが、過去のアーカイブを見ても現在は削除済みかそれに該当する記事が見当たらなくなっています。しかしそのような文面があったことは紛れもない事実であり私以外の人もその文章を受けての発言をしています。

 

日野くん、過去は無かったことにできないよ
 

あれから一年。

幾月も幾月も心に負った傷は癒えず、苛立ちも治まらず思い返す中。ゲーム制作はどうなっているのか今日。検索をかけてみるとこんなものにめぐりあえた。

 

イナズマイレブン 英雄たちのグレートロード開発手記

 

 

これを見て、私はもう、これまで溜めていた一抹の不満を、

全てここにぶちまけることにした。

誰にも話せず、語る者もおらず、理解者なんていなかった

私の胸の内を。

 

 

 

 

理由について。

①主人公チームに魅力がない

いや正確に言おう。魅力的な演出がまるでできていない。

沖縄のとある中学、"田舎"島もとい通称伊那国島のサッカー部は新しいフットボールフロンティアおよびスポンサード制度のため、廃部となってしまう。

この事態を避けるために、伊那国中学は、現在円堂らが強化委員として全国に派遣されたため、一旦解散となった雷門中サッカー部に編入し、フットボールフロンティアへ参戦することとなる。

予選一回戦の相手はランキング1位の星章学園。

大差で敗北するも最後まで諦めない彼らの熱い姿勢に心を打たれた会社からスポンサーを受けることとなり、引き続き戦えることとなる。

 

まぁこれがアレスの天秤の大体のストーリー展開となるのだが、その雷門メンバーが魅力的でない。

まず新主人公である稲森明日人の話をさせてもらおう。彼は物語開始直後、自身のサッカー部が取り壊され、母親も病気で失う。

そんな絶望の最中に与えられた微かな希望、フットボールフロンティア出場に船を漕ぎ出し、サッカーにおける"てっぺん"を取ること。それを亡くなった母に見せることが一つの目標だった。

 

が、しかし彼からの非常に自己中心的な態度が目に余る。自分が信じた物はみんなにとっても共通の真実だと、勘違いしているのだ。

まず星章の闇という回で稲森はゲームセンターで遊びにふける灰崎を見て、「なぜサッカーをしないのか、なぜレギュラーなのに出場しないのか」としつこく問い詰める(ここ重要)。
このイナズマイレブンシリーズにおいて、非常に見慣れたであろうやり取りはそれぞれ全く状況や背景が異なるため、単に稲森が真似をしても不快なだけなのだ。円堂守はイチからサッカー部を創立した立役者であり、なおかつ11人集めないと廃部になってしまう状況におかれていたのだ。だからこそ事情も知らず豪炎寺に詰め寄ってしまうのだが、後に和解もしている。そして豪炎寺は敵ではなく仲間だ。松風の剣城に対する意見も、剣城はフィフスからの監視者という側面もあり、なかなかに声をかけづらい状況であったし、そもそも剣城が一緒にサッカーを行う実利が双方にない(剣城は兄の治療費をフィフスから支援してもらわねばならず、天馬にとってもあの時点では立場上敵であったため、即プレイするメリットが無い。また剣城もライバルではなく仲間。)

灰崎のキャラ的にも練習しないことが自分の実力に対する絶対的な信頼なのであって、豪炎寺や剣城のように本当はしたいのに封印してるというわけではない。だから稲森のウザさは相当に目立つ。

稲森の自己中さ加減が目立つのはあんなにすごいプレイができるのに、なんでやらないんだろう。という他人の事情を鑑みない鬱陶しさからくるものだろう。これ、言い換えたらつまり自分は「サッカー大好きだからやる。なんでやらないの?」ということだ。ここを見ても稲森の傲慢さが見て取れる。

そこから少し進むと今度は仲間メンバーの不快さがセットになっている。
灰崎が病院にいる友人、茜と接触してるところを小僧丸に見られてしまうのだが、それを語られたときのメンバーの態度は「灰崎は女にうつつを抜かしサッカーに真摯に取り組まない不埒者」という敵サイドでも中々やらないような皮肉文句をぶつけているのだ。

もちろんこれには一回戦でボコボコにされた恨みも含まれているんだろうが、それを口に出すことで観ているこちら側は気分の良くないデメリットにしかなっていない。
その発言をして果たして何人が「そうだね」と同意してくれると踏んでいるのだろうか。
そしてその直後に件の稲森が「灰崎はそんなやつじゃない」とこれまた知りもしない癖に灰崎上げを行う。つまり伊那国が灰崎を総叩きし、稲森が上げるという評価シーソーを何度か行っているのである。そして終始この方法でしか主人公である稲森を上げたり他のプレイヤーを上げることができないのが、主人公チームの魅力のなさ、いや度し難い不快さに繋がるのだと思う。

そしてそれらが噛み合うことで稲森の自己中さ・ストーリーを見ていく上で無視できない不快さに繋がる。

事実、この稲森の自己中さの不和が後のオリオンに大きくにじみ出ている。つまり稲森は一切成長していない。

やりたいことはサッカー。自分ができることもサッカー。それを他人にどんな事情や理由があろうと押しつけているだけ。正論を言っているように錯覚されているだけ。

故にネット上でも稲森明日人は「自己中の自己満足者」という評価が目につきやすいのだ。


 

話を他の新メンバーに戻すと前述の通り最悪な印象なのだが、さらにここからよくない兆候が現れる。
不真面目な試合態度、試合中にいがみ合い(しかも自分ができないことを仲間のせいにする)といったもはや目も当てられないような惨状が起こる(白恋中戦)。なんでこうなったかメタ的に解釈すれば先程の稲森評価シーソーの犠牲になったからだ。仲間メンバーが最低であればあるほど、稲森が真面目にやれば(やった風に見せれば)稲森の評価やその他の評価が上がるわけだ。物語流れ的に解釈するなら趙金雲監督による勝利のための采配や作戦により、連戦連勝向かうところ敵なしとなってしまった伊那国が、星章相手にもリベンジを果たし、悪い方で調子に乗ってきてしまった、というのを描写したかったのだろう。そうなれば普通は逐一修正を行なっていくのだが、どうにもアレスやオリオンは仲間がより良くなるのではなく、相手の評価を落として結果だけみれば勝利ということが非常によくある。

白恋、永世、利根川は特に酷い。

要するに悪い面での中学生らしさが出たのだ。

円堂守たちはよく、「こんな中学生いねーよww」といわれるほどメンタルが据わっていたり、自分の悪かった点を反省できて、それをチャンスに活かせたりする良い意味で中学生らしくなかった。

 

一応の中学生らしいといえば少林やら半田やら初期も初期組だろう。部室でゲームしていたり、かと思えば染岡と豪炎寺のストライカー云々や鬼道加入で簡単にもめたり、ね。

だがそんな彼らも円堂らに影響され、徐々に人間的にも成長し、強くなっていっている。

円堂守たちは中学生らしくなさの象徴。光だ。

逆に半田たち一般人は中学生らしさ。影だ。

 

このコントラストは最終的に主人公(光)へと向かっていくためのドラマなのだ。不協があるから合致したときの喜びや盛り上がり、不和が大きければ大きいほど成功のカタルシスが増える。

イナズマイレブンシリーズはこれが多かった。作品に良い影響を与える部分が大きかった。

つまり半田ら中学生らしさの悪い点すら計算され尽くしていたといえる。ある意味ではこの中学生らしさが今ファンから解釈されている半田たちの性格、キャラクター性、個性にさえ繋がっているといえるだろう。

不必要な点を描写せず、必要なものを弁えているからこそできるのだ。

例えば作品内でひとつなにか成功をさせたい目標があるとしよう。円堂守たちでいえばフットボールフロンティア優勝だ。この目標はただ達成するだけではなにも盛り上がらない。よってこれに様々な苦難、困難、影を与える。わかりやすい困難は「弱小サッカー部」だ。これはさらに弱小→だから人気もない→だから部員もやる気が出ないという負と困難のスパイラルを作ることができるのだ。

やり尽くされていてベタだが、計算され尽くしたベタは一定水準以上の面白さを作品に提供してくれるのだ。

そしてこの困難を乗り超え、影を光に包んだとき、大きな目標への達成-その一歩を踏み出すことができるのだ。つまりこの小さなありふれたチーム内のいがみあいという他愛のない事象でさえ、作品にスパイスを与えひいては作品に深みを与えることができるのだ。視聴者に「そうそう中学生とかってこんなだよね。なんだファイアトルネードとか飛び交って色々めちゃくちゃなアニメだけど結構リアリティがあるじゃん」という感想を与え、もっといえばその超次元な必殺技でさえ、かっこいい。そのキャラたちの個性だ。素敵だ。となるのだ。

 

対してのアレスでのいがみ合いがチームの利点になるかといえばノー。だ。

なぜならそれには引き立てるドラマがない。乗り越えたときのカタルシスがない。貶め方もできなかったことを他人のせいにして自分はとことんまで悪くないという奢りたかぶった考え。その問題を解決してなにになる?その人格攻撃は一体どう謝罪されて、どうそれが乗り越えることになる?

そしてその影から救い出してくれる光は誰だ?

主人公の稲森明日人はただただ自分のプレイで、自分はサッカーをやっているぞ!とコートの中心で叫んでいるだけだ。物理的にではなく、プレイで。

それではなにも伝わらない。むしろかえって鬱陶しい。

稲森に関しては下手に好青年な声質の声優のせいで何も知らない中学生らしさというより、悪意のない嫌味な部分が強調されてしまいがち。

 

話を稲森とイナズマイレブンの光と影、試練と乗り越えに戻すと、要するに伊那国の悪いところは大して強くもない癖に奢ったり他人を蹴落としたりするところだ。むしろ自分はヘタクソの田舎者だという認識と名門雷門とスポンサーの名前を背負ってプレイしているという自覚を持て。こういう場合、奢らずチームとしてあるべき状態に戻すキーマンが今までは主人公、またはキャプテンだったのだが、伊那国キャプテン道成はここでも空気。なぜなら全て稲森明日人という新主人公に役割を奪われているからだ。

 

比較されることも多いと思うので、一応ことわっておくが前作の神童は全く主人公松風天馬に負けていない。むしろしっかりとチームの手綱を握って指揮していた。天馬自身も自分はキャプテンに向いていない、神童が理想的なキャプテンとさえ思っていた。そしていざ自分がキャプテンを譲られる側に立った時(聖堂山・ドラゴンリンク戦)、松風はチームを引っ張ろうと自分のやり方で四苦八苦してもがくが、うまくいかず苦難し涙した。

しかし松風は神童とは違うやり方で、チームを引っ張れる存在だということに神童や仲間たちのおかげで気づき、仲間と共に戦って強大な敵に勝利したのだ。

ここまでのドラマがあのアトムにあったか?ないだろう。

結局稲森は自分のフィルターで物事を測り、自分がしたい「サッカー」を周囲に押しつけて、自分の才能で相手と互角の試合をして「楽しい」ことだけが原動力なのだから。

他の仲間はみーんな間違っていて、サッカーに対して純粋に向き合っている稲森だけが正しいことを言っている。そんな図だからなーんにもカタルシスも乗り越えの気持ち良さも生まれない。

だからといって松風のようなことをやってもそれは二番煎じ。作品は常に新しくするために主人公や設定を入れ替えなければならない。いつまでも同じものをつくることのできない、一度ヒットしたやり方にすがることのできない製作の苦難さ、新しく売れるものを生み出す苦労は重々承知しているつもりだが、このような幼稚なやり方で反故にされるのはいかがなものだろうか。


 

②これまでの描写を根底から覆す大問題行為

制作陣の暴走が露骨な下ネタや描写する意味のない、くだらないギャグを生み出す。
これは後のオリオンでも全く改善されていない。

全てイナズマイレブンにおいて不必要な描写であり、1コマでも多く減らすべき描写だったのだが、一切減らさず、すり減った番組時間は試合をカットするという暴挙でカバーを行う。この時点で公式が二次創作に走っているのだが、もう少し我慢して試合を視聴するところにまでこぎつけるとその唯一の見せ場である試合すらもボロカスにされている。

 

伊那国は控えめに言ってもお粗末なサッカーしかしていない。そして何故か基本技術(パス、シュート、ブロック)は格上相手にも同等かそれ以上にこなす。

よくいわれるのがゴールキーパーのザル化だ。一番初めも初めの美濃道三中との対戦において、キーパーは必殺技のひのじも一度足りとも出していない。
じゃあこちらが必殺技を出したのかといえば主人公稲森は通常のシュートで決めている。田舎島の、本戦経験無しが、普通のシュートで、である。

そして従来からあったイナズマイレブンシリーズでは欠かせない必殺技の特訓および開発、についてはとことんおふざけの産物。主に剛陣と新監督金雲のせいだが。

生み出した必殺技の数々からは微塵も努力、や熱意を感じないどこかギャグタッチなもの。悪ふざけと言い換えた方が近い。

いつもやってくるのは〝実は特訓してて〟(本編では描写されないor描写はされるが最低限)の回想からの新必殺技。

ネーミングはほぼ妖怪ウォッチに汚染。具体的には漢字+ここでいる?なカタカナ英語(またはその逆)これらはほとんど妖怪ウォッチの妖怪の技と変えても差し障りないだろう(時系列的にはイナズマイレブンが先なのだが、開発期間を考えたらどう考えても逆転したとしか思えない)。

これらは妖怪ではウケたかもしれないが、イナズマイレブンでは逆効果だ。ネーミングも習得方法もふざけすぎに見えてしまう。特に剛陣のファイアレモネードの下りは目に余る。

そしてこれに加え過去作シリーズをやる上で絶対にやってはならない禁忌タブー、不必要な改変を行なっているのだ。

たとえば円堂守のマジン・ザ・ハンドや一ノ瀬らのザ・フェニックスの改変が良い例だ。

これらふたつが特に槍玉をあげられる要因としてはこの二つの技は初代イナズマイレブン(主にアニメ)で、それぞれ専用の特訓と発動条件があったからだ。マジンでいえば心臓に気を溜める。フェニックスは前身のトライペガサスが習得難易度高めの技なのにメンバーまで違う。

つまり、これらを無視するということは過去にあった出来事は全てなかったことにするよ^_^(公式)ということを意味するのだ。これはどう考えてもマンネリ打開のメリットよりもデメリットの方が大きい。特に何の説明もない場合は。

 

……いや仮に説明があったとしても納得のいくものを作るには相応のシーン、過去がいるためどのみち改変は無駄だろう。
いっそ全く新しい必殺技のひとつでも作ってやればいい。
最低限フォローを入れるならそのままではこの二つの必殺技は汎用性がなさ過ぎて扱いづらいのでそれを改良した…とみることができる。が、リローデッドの試合時空もFF優勝直後なのか不明慮なので憶測の域を出ない。そもそも後のことを思うと考察するだけ馬鹿らしくなってくる。

 

じゃあなぜこんなに必殺技や努力を省いたのか。答えは簡単。話数問題だ。

通例1シリーズアニメはだいたい26話構成(13話で1クール)だ。例外はイナズマイレブンGo。だが、これは時間を多くもらったぶん、より色濃い話を描けている。少なくとも数ヶ月足らずで全国へホイホイ進めた初代・アレスよりはるかに時間をかけて綿密に描けている。アレスは初代に則り、26話くらいのスピーディーな構成で勝負に出た。……が、結果は言わずもがな、このお粗末さ加減となった。

そもそもアレスの一番の売りが

・強化委員としての過去作キャラの出演(円堂世代)

・新作VS過去作の、唯一の次元をほぼ同一にする状態(強化委員たちは厳密には三年生ではあるが)での対戦(Goは大人円堂らになっている)

だったのに、蓋を開けてみれば

ロクに練習風景も見えず、ただ監督のゲームメイクのみで必殺技やら勝ち筋を生み出し、なんやかんやで試合に勝ち進む伊那国と、正反対にドラマ性があり、敗北を経験した全国優勝者という強化委員が加わったことで更に磨きのかかった敗退チーム

というどう考えても釣り合いが取れていない、つまり中途半端にあちらもこちらも立てようとして失敗しているだけだったのだ。

いい例なのが世宇子戦だろう。

これは同時進行で二つ試合をアニメ内で行っていたのだ。まずひとつは全国大会一回戦。灰崎と鬼道らの有する本気の星章学園VSこれまで実力の未知数だった西蔭、そして戦術の皇帝野坂悠馬率いるアレスクラスター最強のチーム、王帝月ノ宮。もうひとつは伊那国雷門VS新生世宇子だ。

 

うん。無理だろう?

こんなふたつの好カードをたった26話におさめながら雷門を順当に勝ち進めさせるなんて。

ちなみに新生世宇子はその裏であえなく撃退された。割とあっさりと。

まぁその分こっちは最強のアレス、王帝と星章の試合に時間を、ひいては野坂のキャラを掘り下げることができたからシリーズ全体からみればまだマシだったもいえるが……

なら世宇子ではなく無名かそこらへんの適当な中学を用意できなかったものなのかね……

神のアクアを失ったとはいえ、世宇子の大幅な弱体化と無理やりな主人公補正でどうにかした感が否めない。これにより熱いバトルとドラマを繰り広げた灰崎と野坂が評価され、ますます適当に勝った伊那国(主人公)への嫌悪感が広がっていった要因になった。

つまり絞り切れていない。1話ごとに1試合だのファンの期待にどうこうと言っていたが、ファンが感じた違和感はそこではない。無印だって別に毎回試合があったわけではない。無印があれほどスピーディーにかつ、王道を外さず面白く進んでいったのは不必要なものを極力写さないことで切り落とし、絞るべき、魅せるべきキャラクターに焦点を当てたからなのだ。

イナズマイレブン初代アニメの脚本家はまさに天才だといえるだろう。いや、私の知識がないから脚本家だけの手柄といっているように聞こえるかもしれないが、もちろん話の構成を考えた人間やそれを実行できる演出も素晴らしい。だがアレスにはそれがない。

 

これをみて、一部、オリオン(世界編笑)を見越しての代表紹介アニメだ。と揶揄するものもいるが、それだけ期待させておいてオリオンがより駄作になったのだから意外性の二段構えにも程があるだろう。つまりアレスの天秤の意義がわからない。

世界大会を勝ち進めるだけの才能をもった人材(円堂たちすら超えるかもしれない)を集めるためにはるばる強化委員として全国に派遣されたのに勝ち進んできたのが主人公補正という才能(笑)におんぶにだっこの集団じゃあハナシにならないだろう。

特に帝国戦なんかは監督としての天才・影山零治とバルセロナ・星章の二度にわたる圧倒的な敗北を味わって強くなった強化委員風丸、そして鬼道以外の帝国フルメンバーで戦ったのにも関わらず予選で敗北だ。伊那国雷門と戦って。(戦犯湿川という見方もできるが。)

もっといえば戦うことすらできず予選敗北した木戸川なんかもそうだが。盛り上げようとあれこれチーム集めた結果、東京は帝国、木戸川、星章、雷門という強豪だらけの予選過多なブロック編成となってしまった。雷門はというと初戦が得失点差マイナスのボロ負けだったのに強者同士が潰しあって敗退し、雷門は変なところでボロ勝ちして得失点差をチャラにして勝利。

こんなズルみたいなことをして抜け道ばかりで勝利しなければならない状況にならざるを得なかったのだ。

 

もし、木戸川が全国大会での戦いあるいは予選決勝だった場合、ライバル校を一校に絞り込むことにより、明確なゴールとボスができたといえよう。

例えば豪炎寺と深い縁のある小僧丸を絡めれば木戸川戦はたいへん良いドラマを作ることができただろう。(勝手に小僧丸が弟子入りしてるだけだが)師弟対決になるわけだ。

豪炎寺の活躍→伝説はやはりすごい→小僧丸が豪炎寺のファイアトルネードではなく、オリジナルの技をつかい、逆転→伝説を超える。→豪炎寺「負けたよ。おまえは伝説おれたちを超えた。この先も勝って行け!」みたいなね。

その場合どうやって豪炎寺を止めるかが見せ所になる。もし適当なやり方で止めれば非難が相次ぐだろう。
とはいえ星章は星章で鬼道復帰、本気の灰崎という大エース二人がいたにもかかわらず伊那国に負けたのだから大エース一人の木戸川のほうがまだ救いがあっただろう。

 

もっともこれは従来の対戦方式ではなくFFIの対戦方式を採用したからこんなめちゃくちゃなことができるわけだが。最初の星章vs伊那国雷門を練習試合にしておけばこんなことにはならなかったはずだ。

もうひとついえば、このルールで敵チームを立てつつ雷門が勝ち進む抜け道は雷門は昨年度の優勝チームなのだから特権を生かして予選の勝敗に関わらず全国招待をもらうことだった(その場合さらに伊那国へのヘイトが高まるがな)のだが無印からルールが変わって一新したのかそれすら封殺される。

そもそもあんな短期間のハイペースで強豪たちを倒しながら選手に活躍の場を与えながらなんて不可能だ。しかしだからこそ極力不必要な描写を省いて見せるべき描写を映すべきなんだが、日野およびアレスオリオンはそうしなかった。やったのはひたすらしつこい寒いギャグの繰り返しと回想でしか語られることのない練習風景だ。

しつこいギャグは妖怪からの逆輸入だ。いわゆる公式のおふざけというやつだが、このおふざけは度がすぎると視聴者は白ける。それ故タイミングを間違えると作品に対する死刑宣告も同義となり得る諸刃の剣なのだ。滅多なことで手を出さない。出すとしても限られた場面(それがスペシャル番組という扱い、本筋とは関わることのない外伝だからこそ許されるネタとか)だからこそそのおふざけが物珍しく輝いて見えるのだが、日野はこれを一切自重しなかった。いや、日野というより古いギャグを蒸し返す大人のオヤジギャグとでもいおうか。まぁつまり妖怪ウォッチのことなのだが。
特に金雲の下ネタには目も耳も覆いたくなる。
変な外国人キャラだったら何をしても許されるとでも思っているのだろうか?

どうしても違う路線で描きたいなら、誰の目にもつかない自分の脳内でやるかせめて二次創作でやってくれ。

作品は見る人たちが楽しむためにあるものであり、それは製作者の大人たち個人が自由好き勝手にしていいおもちゃでは決してないということをはっきりと断言しておきたい。

これに対して、自分の作品なんだから自分の好きにやっていいだろと反論するものもいるが、ならばなおのこと多数の人間を巻き込むべきではない。アニメやゲームは一人では作れないのだから。

そもそもイナズマイレブンはゲームとアニメを同時進行にこなすマルチメディアプロジェクト作品であって原作は厳密には存在しないアニメだ。(より厳密にはゲーム媒体が原作だ)だがアレス・オリオンはこれから外れた。

ワールドカップに合わせるという杜撰なスケジュール管理、ゲームのみならずアニメ制作に出しゃばり、このような作品の堕落っぷりを露呈した挙句まだファンが悪口言ったからゲーム制作のモチベーションが下がっただの抜かしているんだからそりゃこんな長々とした文も書きたくなる。ゲームは期限までに制作できなきゃ発表してはいけないと思うが。そりゃそうだろう。時間ないもん。ゲームもアニメも。

全26話でそんなことできないよ。でもね。全26話を言い訳に使うんなら初代もっぺんめんたまひん剥いて良くみてみろよ。おんなじ話数で魅力的な描写を描けないのは誰の責任だよって話になってくんだろ。脚本だよ脚本。明確に脚本には差異がでるのだと、脚本によってキャラが魅力的になるか致命的になるか変わるのだと、私はイナズマイレブンというアニメを通してはじめて、痛いほど強く、よくわかった。それまではどいつが書いても同じとさえ思っていた。脚本を批判するやつはどれだけ偉いんだとさえ思っていた。今ここでハッキリと断言しよう。脚本は才能がないやつがでしゃばると作品はゴミ屑になる。

これでも少しくらい反省の色や作品としてまともなものを作ろうという意気込みの一つでもあればここまで批判することもなくむしろ応援しようという気の一つでも湧いたのだが、きちんとした制作にかける時間がないのも自分の杜撰なスケジュール管理のせい、ゲームができていないのは批判されてモチベーションが下がったせい、自分が創ったゲーム原作のストーリーとアニメが違うから製作陣をいったん解散にします。けれど僕が創ったストーリーに対しての批判は一切受け付けません。責任も取りません、行き当たりばったりの突貫工事プロジェクトです。でもアレスの天秤は妖怪ウォッチを超えるコンテンツとなります!などと言われれば誰も擁護してくれるものはいないだろう。社長自らが看板コンテンツを腐らせる身の振り方しかしていないのだ。

二次創作が陳腐な幼稚作品だと揶揄される最大の要因に辻褄が合わない展開とか、意味もなく雰囲気だけで登場してあれこれ喋らせるキャラとかがあるが、そういう点は全てこのイナズマイレブンアレスの天秤及びオリオンの刻印に集約されてはいないだろうか。

制作体制を変えてまで、イナズマイレブンGoの終了から数年近く温めて描きたかったものがこれなのか、とため息をつかざるを得ない。

コメントでも度々上がっていた通り、つまり新しいことをやろうにも絞り込みが全くできておらず、中途半端でかつ歪なものに仕上がってしまっているということだ。(イナズマイレブンという作品において)必要な部分や描写はすべて削ぎ落して、必要のない部分は徹底的に盛り込んだ。受けるかもしれないと思った要素はすべて上っ面だけを模倣した二番煎じ以下。

 

 

 

タブーの話が大きく持ち上がるとすればオリオンだ。

さて、開幕あらゆる期待を裏切って始まった続編ーいわゆる世界編、イナズマイレブン史上最低のマイナススタートを切ったといっても過言ではなかったオリオンの刻印はどう巻き返すのか?と新たに期待されていたが、日野および製作は見事なまでにその期待を思い切りぶち壊した。

まず。

オリオン財団、という敵組織が存在し、そこに属する選手やチームは家族やらを財団に人質にとられていたり、支援金でどうにか生活をさせてもらっていたりする真っ黒グレーの犯罪組織集団。彼らは試合中に事前に仕込んだ刃物で相手選手の足を切り裂いたり、スパイクに特殊な加工を仕掛けて相手選手の目を眩ませ、傷をつけたり、挙句スタジアムを改造し、催涙ガスを噴き出すようにしたりするという勝つためには文字通りに手段を選ばない卑怯で野蛮な集団。

 

とここまで羅列するだけでいかに"非常識"で"恐ろしい"かがよくお分かりになられるだろう。家族の人質は前作ガルシルドがやってるが彼を鼻で笑うかのごとく次々とアニメ、いやもうイナズマイレブンという作品においてやってはならないタブーを犯しつづけた。しかも故意に相手選手を傷つけて、それをなんの罰せられもせずに逆に指摘したこちらを罰するという理不尽さだ。

タブーというのはこのあってはならなさの度合いだ。

前述したカタルシスの話を持ち出すならば、いわば試練にあたる。

たとえば相手選手のみに有利なスタジアムの仕掛け(Go)だとか身体の強化(初代2、3)だとかこれらはある程度アニメにおいては共通のものとしてむしろピンチ?のギミックとして作用する。

身体強化なんて公言しなければただの強キャラとして存在が許されるのだからだれも見向きもしない(たまに強さ議論でこいつは◯◯抜きにしたら雑魚、いやこのラインまでは強いはず、と不毛な争いになることはある程度には関心があるが)。スタジアムの仕掛けに至ってもそもそもそのGoは主人公側がマイノリティであり、敵は大きく強大な支配を施しているからこそのデメリットであり、その程度は承知の上で革命という喧嘩ふっかけているんだから当然である。ラフプレーに関しても少々乱暴な言い方になるが、極力吹っ飛ばされないほど肉体が強ければ気にしなくていいはずだ。

 

サッカーは人を傷つける道具じゃないぞ!!!

 

初代円堂の言葉を借りるならオリオンはまさにゴミ屑同然である。アレスでは散々主人公サイドを蹴落とした日野だったが、それと帳尻を合わせるため、今度はオリオンでは敵サイドをこの上ないゴミ屑にしてゴミとゴミどっちがいい?とまさにアレスの天秤のごとく天秤理論に持ち込んだわけである。もちろん結論はどっちもゴミ屑だ。

 

こうした敵サイドの有利、は主人公とあくまで勝負が成り立つということが前提である。オリオンの凶行はそうした"勝負"からはとことん逃げている。いや勝負にすらなっていない。つまり禁じ手を使っていいなら勝てるが、真剣勝負になると歯が立たない。という最低最悪の手段なのだ。まずやることが対戦相手の無力化なのだ。サッカーをどこまで穢せば気が済むのだろうか。

オリオン財団は毎回毎回このワンパターンな非道な手段でしか勝負してこない。こういった点からも自分の思い通りにならない相手には何をしてもいいという稚拙な暴論めいたストーリー性が垣間見える。

試合中に、なんの隠しもせず、堂々とやって罰せられなかったのはオリオンが初なのだ。こんなもの即出場停止で構わない。黒幕の黒幕もここまでサッカーを汚した理由は下らない世界征服だったのだ。やれビジネスだ国家機密だのそんなものは名探偵コナンでやれ。イナズマイレブンでやる必要はない。

オリオン最終戦におけるサッカーで戦争

という図はイナズマイレブンにおいてはむしろありふれたカードであり、まぁ代理戦争を試合でやるというのがお決まりのシナリオで

驚異の侵略者では吉良のハイソルジャー軍団、ジェネシスとの戦い(吉良の軍事介入を阻止するための戦争)

Goでいうドラゴンリンク(管理サッカーと自由なサッカーをかけた戦争)、

クロノストーンでいうラグナロク。ザ・ラグーン(未来世界の存続をかけた戦争)、

そしてギャラクシーのグランドセレスタギャラクシーとイクサルフリート戦(負ければ地球を、居住惑星をあけ渡さねばならない戦争)

と作品を追うごとにスケールもシリアス度もあがっているのだが、エイリア石も消し、化身も消し、ソウルも消し、普通のサッカーで戦うことを決めたオリオンにとってこれらの争いはいまいち燃えない、むしろ現実寄りな超次元とは無縁のものだ。

しかもそれが権力者個人の望む理想世界を作るがために、家族や選手や他人の人生をめちゃくちゃにしたのだとするとあまりにも下らなすぎて彼らが浮かばれない。

大人の好き勝手にされた感が否めないのだ。アレスで散々脚本上好き放題されたのに。それがとうとうストーリーにまで現れてきたのだ。

敵の敵の敵の、実は裏には……実は裏には……実は裏にはこいつがいて……を辿っていけばただの権力者だった。

ここで"ただの"権力者つけたのは理由があり、それはサッカーなんかこれっぽっちも絡んでいないからだ。

吉良は家族の復讐。狂気。フィフスはサッカーを皆に与えるため(Goはこの上なく正当な理由が用意されていて丁寧に描いている)

サッカーがほとんど絡んでいない上、ポッと出のしょうもない悪役という部類にはガルシルドという事例もある。

イナズマイレブン世界において多くの人間の人生を狂わせた元凶は影山であるとされていた。

しかしその影山でさえ誰かの手駒でしかなかった。その黒幕はガルシルド。つまり影山も負の感情を見出され、利用されていた哀しき悪役になり、全矛先はガルシルドにいくのだが、その当のガルシルドはビジネス。単なるビジネスの道具としてサッカーを使っていた。そう、そんなことのために円堂大介たちは危険な目に遭わされ、影山も悲惨な末路を辿ったのだ。

この種のオリオンに対する不満というのはこのガルシルドに対してのものと非常に似ているのかもしれない。

しかし、オリオンのひどいところはこの憎むべき諸悪の根源や一団が改心したキャラクター(フロイの兄)や元々好意的なキャラ(フロイ)、その親族だということだ。

どれだけ悪質でも、醜くても汚くても、正しく描いたキャラクターにとっての親族だから手痛い罰を、苦しみを与えることができないのだ。(後味が悪くなるから)

にも関わらずオリオンの黒幕がやらかしたことは償っても償いきれないほどの大悪事。

サッカーを汚しに汚しまくった大戦犯。

なのになんの手痛い悲劇も受けず、改心も反省もした様子も見受けられず、なににもならなかったのが救われない。

一応、最終回で逮捕こそされたが、そのときの態度も腹ただしい。
もはやカタルシスすら消滅したこの作品を最後までマトモな感情で見届けることができたものがいるのだろうか?

 

・空前絶後の催眠術ブーム〜不必要な過去改変と無意味な過去オマージュ

オリオンではこのようにこれまでの世界戦とは異なり、敵の方が圧倒的に弱い。(もしくは主人公サイドが何もしないのに強すぎる)
そのため敵はいちいち卑怯な手段を用いなければならず、試合が成り立っていないというのは前述で指摘した通りだが、全編が全編卑怯な手で埋まったわけではない。
一応は彼らも才能のある選手としてオリオン財団にスカウトされ、勝ち続けることでビジネスとしてのサッカーを存続させようとしていた。だが、これすらも面白くなく、不快だった。(あまりにも滑稽という意味では面白さを見出せる聖人君子のような方もいるかもしれないが)

まずオーストラリア代表のシャイニング・サタンこと、マジキ……狂気のチームだが、こいつらが使ってきた技は催眠術

つまり尾刈斗だ。
え?今更敵の必殺技がそんなやり尽くされた言葉で再現される?
しかも円堂はそのせいでシュートを決められまくる。本編とは無関係なのに夏美は円堂と若干恋仲チックになっている。これは今までのファンからみれば当たり前なのだが、それは前提にイナズマイレブン(初代)→(無かったエイリア編)→アレスの天秤というアニメ視聴順番があるから成り立っているのである。実際、コロコロチャンネルでもアレスの天秤放送前に無印のフットボールフロンティア編を全話公開していた)

ヒュプノシスだのなんだの小難しいことを言っておいて結局は催眠術。しかも対処法はなんと見ない。

 

まだ円堂たちが尾刈斗戦でやっていた大声戦法の方が説得力がある。あれはしかも豪炎寺と染岡という二大ストライカーが認め合って、力を合わせて新必殺技で点をもぎ取るから締まりが良かったのであって、常にペンギン・ザ・ゴッドアンドデビルでしか得点(たまに明日人のシャイニングバード)できない試合になんの見どころがあるのだろうか。

過去の焼き回しなのにそれすらまともに描けていないというのは、ドラゴンボール超よりも演出が下手くそだと言わざるを得ない。(ペンギン神悪魔の方は灰崎とヒロトが認め合ったわけではない。たまたま俺が俺がで活躍したいだけの二人がうって成功させたシュート。しかも練習したとかではなくぽっと出。それなのに決勝までほとんど破られることなく決まるおかしい必殺技)

 

催眠術ブームはここに留まることを知らず!

なんとアフロディことてるみ様が使っていた必殺技、一度はみんなも真似したであろうヘブンズタイムすらなんと催眠術だったという不必要かつ不名誉な後付けが制作の都合で与えられたのだ!!

アレスの天秤ではただの一度も使うことのなかった必殺技が!!!

ここにきて掘り返されたのだ!!!無駄に。

じゃあ走り終わったあとのあの突風はなんなんだよ。あれも催眠術だってか?

判明したのはオリオン全体の中でもそこそこまともな部類であったアメリカ、ネイビーインベーダーズ戦だ。なぜマシだっかというと、敵の攻撃(まぁオリオン特有卑怯)を、野坂やアフロディらが知恵を出し合って止めて、アフロディたちがもともとヒロトやゴーレムたちと試合について話し合う場面が描写され(伏線)、それがしっかり回収された後、オリオンの不正で辞めさせられたであろう本来のアメリカ代表ユニコーンの一ノ瀬やマーク、土門と監督たちがしっかりと試合後半で帰ってきて、オリオンの不正を暴き、(カタルシス)なんとその後試合に一ノ瀬たちがネイビーのチーム名として参加。一方で監督の命令で動いていたオリオンたちは、命令がないと動けなくなる。(御影専農)しかし一ノ瀬たちはアメリカのチームとして、アメリカの誇りをかけて試合を続行する。その後、オリオンと円堂世代。合わせることの交わることの決してない両者が、同じサッカー選手として協力し合い、最後はオリオンの使徒も正々堂々と戦うことのできた。(大団円)という、まぁストーリーそのものは過去の焼き回しもいいところなのだが、前述の前述でも述べた通り、やり尽くしたベタは一定以上の評価になる。汚点だらけのオリオンの中で、このアメリカ戦はユニコーンの一等星の如く、燦然と輝く歴史となったのだ。結果として美しい展開にはなったが、

なぜアフロディに不必要に手を出したのか、

なぜアフロディは神をやめたと人間宣言したはずなのに、神の目とかあやふやなことを言い出したのか

という疑問は解決していない。催眠術などなくても普通に強い。という設定ではダメだったのだろうか、どうしても催眠術が、そんなに、二回も使いたくなるほど都合のいいワードだったのか。

とはいえこれは実はネイビーインベーダーズたちが、そんな催眠術にかからないほど、徹底されて教育されていた命令順応機関という軍隊兵士というキャラクターとしての個性、側面を裏付ける良い描写であったといえよう。オリオンにして初めて一貫性のあるチームが出たと言えよう。(いやまぁ李子分君とか、クラリオとか一貫性のあるチームは元々あったけどさ……このようにしっかり(?)してるところはしっかりしている。よってこの改変がそこまで不快なほど受け入れ難いとは言わない。

言わないが。

催眠術を二回使う必要性と、どうしてそこまでしてキャラを崩すのか、要するに不必要な描写を入れたのかというところに脚本のストーリーつくりとしての根底から問いたいわけだ。

 

オリオンは圧倒的なまでの敵デバフなのだ。なにやら最終回付近で急に持ち直すか方向転換するかのごとく敵が本気を出してきたが、そもそも最終回は必ず主人公が勝つのだからこれもまた無意味である。とことん力の出し方を間違えている。

アレスででは足りなかった話数をたっぷりもらって時間をかけて描いたのはクズばかりだった。

なにが次回作はキャラのなぜ受けたかわからなかった魅力について掘り下げるだ。掘り下げたのは社会の闇だろう。なにが共感を持たせて描くだ。むしろこんな駄作のキャラに共感したやつなんて家庭内不和を抱えた病みだけだろ。フロイ兄弟とか野坂とか。

世相反映させるとこ間違ってんだよ。

稲森が製作者の代弁者としか思えない。それは今ある状況を、自分は楽しめるから周りのみんなも楽しんでください!と言っているようなもんだ。

よくあるファンタジーの悪役王国に対して、「この国は間違っている!王の権力に屈して、自分のしたくないことをしなきゃいけないなんてどうかしてるぞ目を覚ませ!」というものがあるが。

オリオンはまさかそのようなものを描きたかったのではあるまいな?それを以ってイナズマイレブンでは描けなかった「人間ドラマ」などとのたまうのではあるまいな?

だとしたら作品に対して見当違いの思い込みもいいところである。

 

 

長々と語ったが、ひとつ、大きくまとめるならばこうだ

・イナズマイレブンアレスの天秤はキャラクターが全く魅力的でなく、それが主人公サイドである。→魅力的にキャラクターを活かすには話数が必要?→イナズマイレブン初代とアレスの天秤はほぼ話数は同じ。しかし、描写は無いよりはあったほうがいい→じゃあキャラクターの動かし方に差異はあったか?→脚本・構成の段階で既にここまでの差が出ている。→原因は脚本にあったのでないか?

といえるだろう。もっといえば有能な脚本(つまりその道の扱いに長けた専門家)を排除して仕切った人間の責任といえるだろう。

ハガレンの等価交換ではないが、世の中は何かを失うならば同価値の何かを手に入れないと成り立たない。◯◯撤廃と叫ぶなら◯◯に代わる新しいなにかを、問題点をなくして、なくした上でベストな方法を提案しなければならない。

そして忘れてもらっては困るが、このアニメ評については既に〝放送が終わった〟物であること、(つまり今更どう言おうが何も変わらないこと)と、批判でも、提案でもないということ、そして一個人のただの〝感想〟に過ぎないことを留意しておいてもらいたい。単に駄作であった〝とおもう〟〝個人の〟感想を、どの立場に立つこともなく、どの責任すらなく下らない個人の1底辺ブロガーとして〝書いている〟だけだ。もちろんこの〝感想〟がお気に召さない方は好きなことを書けばいいと思う。私はそれを無視する権利も削除する権利も所有している。

話をイナズマイレブンにもどすと、つまり有能な脚本を落とすなら自分がさらに有能である必要があるか、さらにさらに有能な脚本を、具体的な理由で、私怨抜きの、相対的かつ客観的にみて合意の取れる理由で、雇わねばならないだろう。例えばだ。自分は男性だから女性キャラの深い心理描写を描けない、描くのに苦労するからその手に長けたスタッフを呼んだ。とか。あるいは芸術の観点から見て、自分は完璧だと思っていたが、このキャラには赤より緑の方がいいかもしれない、ということをいえる最先端の色彩センスをもつスタッフに一任した、とか。こういう役割分担は大きなことを為そうとする際、必ず必要になると思う。一人で全てこなすというのは、それはよっぽど才能があるか、誰からも文句を言われない二次創作者くらいのものだろう。作った以上世間に反映させ、あらゆるメディアを通して伝わる作品なのだからそのネームバリューに関しては最大限気をつかわねばならないだろう。今回の作品はそういった意味でファンの期待を完全に裏切ったといえるだろう。悪い方で。

 

 

 

とりわけ今は、令和前、平成終わりあたりからなんとなくアニメがゴミ屑のようになっている、いた気がした。みんな大好き遊戯王ArcVとかけものフレンズ2とか機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズとか。どれもこれも歴代の名に泥を塗った作品群だとは思わないかなぁ。遊戯王に関してはAi編のVRAINSも入るが。

昔昔とおすとすぐやれ〝懐古〟だの頭の悪いネットかじりがうわずみだけ掬い取って揶揄するが、昔の良さというのはどこか試聴者を、見る人を大事にしよう、楽しませよう。というところがあったからではないだろうか?

果たして今の作品がどこまでそれを守っているだろうか。

アナログからデジタルに移り変わり、作画や映像技術は以前より格段に増したはずなのに。口々に新たに反論する人は予算だなんだとぬかすが、それは以前も同じでは?むしろ以前だって予算不足で作画崩壊したパートなんてザラにあったぞ。

肝心なのはなんで技術も中身も確立した今、作画崩壊とか脚本破綻が起きるのか、という話だ。つまりもう良いものを作ろうとしていないからだろう?ただ映像を垂れ流しておけば満足するだろうという、どこか試聴者を見下したような作品のコントロールが巨大な組織によって徹底されているとしか思えない。なお本当に懐古というならば、遥か一世紀前の作品を現代の子に見せても一人も楽しくないという感想がなければならない。なぜなら懐古とは自分が生きた時代に放映され、見た。親しんだ作品しか愛せない者のことだからだ。しかしそんなことはむしろない。

私は平成生まれだが、昭和の作品の方が質の良いものが多くあると思っている。そしてそれらは小さい時も微塵も見たことも聞いたこともない作品の方が多くて、成人してから見直してるが、非常に面白い。昭和の名作さえ、もう名前すら知らない世代になってきつつあるのだ。それでも面白いのは懐古というにはおかしくないかな?つまり感性がどこかあるのではないだろうか。ひっかかる感性。フックだ。多いのはいわゆるテンプレ。王道。なぜそれを人が面白いと思うか。それはそれを徹底して表現、模索して頑張った人たちの汗と涙と努力の結晶だからではないだろうか。

今の作品はそういった人たちの努力を糧にして、若者が徒らに作品を破壊しているだけではないのだろうか。〝今〟の面白さとはなにか。少なくともオリオンやこれまで最低の評価をされてきた駄作群では、決してない。自分たちの好きなようにやってめちゃくちゃにして、残ったものは傷痕だけだ。ここで自分がファン代表だとか視聴者〝様〟だとか言うつもりはない。ただの一個人の感想だ。

 

つまりファンを裏切ったのではなく、私を裏切ったのだ。完全にな。