むか〜し昔。
日本では、食事中に会話をするのはとても下品な事とされておった。食事の時は姿勢良く、無言で速やかにいただく。子供が食べながら喋ったら、なんて下品なと怒られておったのじゃった。

時代は変わり、食事の時間は家族のコミュニケーションの時間じゃと言いだすようになった。完全に、欧米文化に影響されてのことじゃった。

昔の日本は、襖で仕切られた空間で家族がそれぞれ過ごし、お互いの存在や、お互いの動きなどがふんわりと意識されており、ふんわりと共存しているが故に、特に食事の時間をコミュニケーションの場として特定せずとも、家族は常にお互いの存在を感じながら生活しているものだったのじゃ。

ところが欧米的個々人の権利重視、プライベート重視の文化が入って来るにつけ、そして何よりも欧米式の室内居住空間設計が当たり前になるにつけ、家族はそれぞれバラバラに、お互いの存在を意識することなく生活することが当たり前となり、食事の時間に家族揃って食事をすることくらいしか日常の中での家族共存を意識する時間が無くなってしまったのじゃった。

そうなると、食事中にテレビを観るのがダメだという話になった。家族がみんな、それぞれテレビを観て、家族の会話がなくなるからじゃ。今でも食事中のテレビが禁止だという家庭は日本に結構あるのじゃ。

で、親は子供に「今日学校はどうだった?」とかなんとか、クソみたいな質問をして無理矢理に親子のコミュニケーションを図るのじゃった。子供はそれに当たり障りのない無難な答えを返し、めでたく親子のコミュニケーション成功というわけじゃ。

子供は観たいテレビ番組があるから、親の質問に適当に答えながらとにかくサッサと食事を済ませ、テレビのある部屋に移動する。これが日本の家庭の普通の光景だったというわけじゃ。これは日本の古き良き時代の話じゃ。

かくして現在。

テレビ視聴は寧ろ、親子や家族が時間を共有する数少ないチャンスになってしまった。テレビを観ている者が全て、得る情報を共有し、お互いの反応を認識し、更には感想を述べ合うことさえ可能な、コミュニケーションの手段の一つであったということなのじゃ。

そうつまり、現代は既に、お互いが空間的には共存しているにも関わらず、スマホやタブレットを使って全員が別々の情報を得、別々の対象とコミュニケーションを取り、別々の時間を過ごす時代になってしまったということじゃ。

食事中に話をするんじゃありません→食事中にテレビを観るんじゃありません→食事中にスマホ弄るんじゃありません

と、変換してきたというわけじゃが。

個人主義を尊重するが故に家族間の関係を維持するための個人への縛りを増やしていくという、なんとも言えない矛盾が生まれ、矛盾が悪化しているように感じませぬか?

なんでも欧米文化が優れているわけでもなく、本来持っていた自国の優れた文化を蔑ろにすることで、失っていってる幸せがあるかもしれんのじゃ。

つまりは池彦和室で和室を作れってことなんじゃなあ。むか〜し昔の話じゃ。昔は、食事中に話をするのは下品なことだったんじゃなあ。昔むかしは、食事の時間を特別視しなくとも、家族は常に時間や空間を共有し、精神的に共存していたから、という話じゃ。それは襖で仕切られた和風の住居だったからという話。ぽこぺん。