「国家衰退」と「経済停滞」の必然的並行 | 批判的頭脳

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「国家・政府は、経済にとって邪魔な存在なのであり、その影響力は可能な限り排除されなければならない」
「国家の介入がなければ、経済はより発展していたはずである」―――――――

……こうした偏見、というより誤謬は、現代日本では根強く広まっている。
実際の経済学の方はというと、拙コラム「経済学の潮流変化」で引用した通り、その含意は極めて『大きな政府寄り』なものになりつつあるのだが、現代日本では、旧式の(周回遅れの)経済学の”教え”が真に受けられているように思われる。

公共政策がいかに経済発展に資するか、という具体的議論は、ここで改めて繰り返しはしない。
制度的・実物的・科学的・教育的インフラが、経済成長どころか経済それ自体の最重要基盤になっていることを、わざわざ軽視する意味もないわけであるし、国家的介入の排除が、経済的に有益であるとは限らないということなど、ベーシックな公共経済学の議論で明らかになるところである。

さて、現代日本の知的惨状の帰結として、よく知られているように、公共事業削減をはじめとした、「小さな政府」志向の政策が次々と打たれる様になった。
財政支出の伸びは、拙記事「現代日本経済の時系列分析」で指摘した通り、1990年代以降、ほぼ横ばいとなってしまった。

こうした事態について、「不況による財政赤字拡大に対する赤字フォビアの”結果”なのであり、赤字フォビアを取り除けば自然と公共政策は拡充されるはず」という考えもある。

その考えは一部は認めるものの、実際には違う側面もあるだろうと私は考えている。

もし仮に、ある公共目的に対して、挙国一致で団結して取り組めるのであれば、仮に財政赤字が額面上大きくなったとしても、財政支出を実行可能であるはずだ。(言うまでもないかもしれないが、戦争が例に挙がる)

そうならないのは、そもそも「ある公共目的に対して団結して取り組む」ということ自体が、現代日本において、不可能になりつつあるからではないだろうか。

「小さな政府」志向にしても、もちろん理屈の上では、(周回遅れの)経済学を”利用”しつつも、それ以上に、国家という形態から本質的に自由になりたい、解放されたいという、反国家的嗜好、”地球市民”的志向がまず念頭にあるのではないか、と私は疑っている。

もしそうだとすれば、そうした思想が、思想の実現のために、「均衡財政神話」(財政の均衡が崩れたら悲劇が起こるという神話)を”利用”しているに過ぎない。

WWⅡが世界恐慌を最終的に解決したという歴史を見ても明らかなように、均衡財政神話は、国家的団結の高まりによって簡単に粉砕できる。

しかし逆に、国家的団結の弱体化が進むようであれば、均衡財政神話は、循環的に自己強化され続け、脱却は最早不可能となる。



国家とは団結の形態であり、国力とは団結の力に他ならない。もし庶民生活を社会的な団結の力で改善しようとするならば、それは実質的に国家・国策という形を取らざるを得ないわけである。

国家の力を重視する、まずは国民と国民利益ありきとする、という原則は、現代日本では尊重されず、それどころか狭量さを示す悪徳とまでされる。
確かに、国民国家主義を表層だけ煽って、現実的には国民生活に資することをなさないという思想も蔓延しているわけだが、それに対抗して庶民生活の改善を訴えつつも、そこに国民国家主義を介在させることに徹底的に抵抗する向きが大多数である。

しかしながら、国民生活のために国家の力を利用するためには、どうあがいても確実にナショナリズムが必要不可欠なのである。
ナショナリズムを根本から否定し、個人主義を無批判に最上とする限り、本当の意味で国民生活を守る、改善するということは出来ない。
そこでは国家の力が利用できず、したがって、剥き出しの市場経済にさらされた人々の衰弱を看過せざるを得なくなるからだ。そこでは国家と経済がパラレルに衰退する。

とはいえ、私も現代日本的な個人主義に首まで浸かって生きてきた人間であり、国民国家を第一とし、そのためには資源を十分に国家に還元しなければならない、という考えに、「刷り込まれた忌避感」がないわけではない。
この忌避感に忠実な者が多数派となった結果が、現代日本の有り様なのであろう。

「庶民の生活は守られなければならないが、ナショナリズムはちょっと...」というのが、素直な国民実感であろうし、より進めば、「庶民生活を守るためであっても、ナショナリズムを利用するなんて嫌だ」というところに行き着くのが、現代日本的思想の典型的顛末である。

私はこうした風潮を端的かつ個人的に「反抗期の時代」と呼んでいる。
庶民への庇護は求めるが、それを現実的に可能にするための国家的団結、国家への積極的帰属に対しては拒否反応を示すというのは、まさしく反抗期なのであり、その蔓延の必然的帰結として、国家衰退と庶民困窮が並行して生じている。


おそらく現代日本という国は、国家としての団結を忌避する過程で、消極的に庶民の困窮を受容し、国家としての衰退と経済的衰退をパラレルに経験しつつ、歴史の流れ次第では国家の形式自体を失うか、そうでなくとも国家としては形骸化してしまった衰退地域となることを余儀なくされるのであろう。


今、少なからぬ国、ないし地域において、『国民的利益』と、『近現代的な"地球市民"的思想&素朴な経済自由主義』の間にジレンマがあるということが大なり小なり認識されるようになり、その矛盾を衝くような政治的変動が起きているが、日本の政治はあくまで”地球市民”的思想の『内ゲバ』で終わっているのが現状である。


前提を全部ひっくり返すようなことを言えば、「庶民生活改善なんてどうでもいい、自業自得の一言で済ませろ」「国力衰退によって経済停滞してもいい。国家なんてものに"隷従"する方が耐え難い」というなら、別に現状でも"何の問題もない"。

ただそこで、「下手に介入しないことがむしろ庶民のためになるのだ」とか「国家の力なんてないほうが経済的にも繁栄するのだ」あるいは逆に「庶民の生活改善のために国力なんて必要ない」とか、そういう虚偽や欺瞞が撒き散らされているのが現状であり、少なくともそうした詐欺は徹底的に批判されなくてはならない。



(以上)