批判的頭脳

建設的批判を標榜し、以って批判的建設と為す。
創造的破壊を希求し、而して破壊的創造を遂げる。

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noteにて、「経済学・経済論」執筆中!

「なぜ日本は財政破綻しないのか?」

「自由貿易の栄光と黄昏」

「なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか」 などなど……


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寄稿先はこちら、およびこちら


前編においては、通説的信用創造論の批判と、その一環として信用創造の英語版Wikipediaの引用を行った。


今回(最終回)は少しWikipediaから離れて、通説的信用創造論の批判を行っている各種文献を紹介することにする。



『金融論の新展開と組合金融論』(田中久義/農林金融2011・2より)


「b 通説的見解への疑問
しかし,このような見解(引用注:通説的信用創造論)には古くから疑問が出されていた(建部(2008))。
それは,「預金者が持ち込んだ現金はどこからくるのか」という問いである。
先の例で最初に預けられた現金は,取引先からの入金や給与収入で得られたものであるかもしれないが,その入手経路をたどれば,その現金は必ず金融機関から入手されている。日本銀行だけが銀行券を発行し,それが金融機関を経由して経済社会に供給されている以上,これは必ず成立する。
とすれば,本源的預金として預入された先の例の現金は,もともと他金融機関の預金であったのであり,ある金融機関の本源的預金の増加は他金融機関のそれの減少を意味する。
これを金融システム全体でみれば,預金額も支払準備額も変化しないことを意味しており,信用創造は実現していないのである。

このような立場では,金融システム全体でみれば本源的預金は存在しないことになる。
存在する預金は,すべて貸出によって創造されたものであると理解せざるを得ないからである。


c 現在の理解
この論争は通説的見解の修正で決着した。すなわち「銀行が貸出を行う際は,貸出先企業Aに現金を交付するわけではなく,Aの預金口座に貸出金相当額を入金記帳する。
つまり銀行の貸出の段階で預金は創造される」とされたのである(全国銀行協会金融調査部編『図説わが国の銀行(2000年版)』)。
ここで示されているのは,「まず預金ありき」ではなく,預金通貨を創造する「貸出ありき」が妥当だという見解である。
これは,預金通貨がすべて金融機関の貸出によって創造されたものであることを宣言している。
この通説の修正は,単に信用創造の理解の変更だけにとどまらない広がりをもっている。
例えば,マネーストックにかかわる金融政策では,中央銀行がハイパワード・マネーの供給額を決めれば,その貨幣(信用創造)乗数倍のマネーストック(つまり銀行貸出)が供給されるとしていた。
しかし,時間的に先行するのが金融機関の貸出であるとすると,日銀はそれをコントロールすることができないことになる(池尾(2010)94頁以下)。」





『資本蓄積と信用創造』(野田弘英/東京経済大学経済学会)

「このような「銀行貸出による貨幣創造」を重視する見解の特徴は,現代銀行制度の存立構造を前提したうえで次のような銀行の「信用創造」活動に焦点を絞っていることである。銀行は貸出を行う場合,直接に現金を貸付けるのでなく,まずは借手名義の要求払い預金を創造する。
その預金が支払いに用いられても,同じ銀行の顧客間の支払いであれば預金口座間の振替転記がなされるにすぎず,また異なった銀行間の転記によって銀行相互間に資金過不足が生じる場合も,それは銀行間の貸借によって処理される。
銀行にとって実際に現金準備が必要となるのは現金による預金払い戻し請求が生じるときである。
だが銀行部門全体としてみれば,銀行の貸出金の多くは非銀行部門の個別経済主体の手に渡って預金形態で保有されるから,現金の支払い請求は生じない。
実際に現金支払い要求が生じるのは貸出金のわずかな一部分にすぎない。
そのため銀行は現金準備の数倍の貸出を行うことができるのである。
むろん個々の銀行は,預金設定による貸出を行う場合,預金支払い準備金を用意しなければならない。
しかしその準備金は顧客から現金で受け入れる預金以外に金融市場において他の銀行や中央銀行からの借入によっても調達することができる。
現在の準備金保有に不足があれば,銀行は外部から資金を調達して預金設定による貸出を実行することができ,その後に顧客から現金預金を集めていけばよい。
実際,銀行間の貸出競争が激しければ,貸出を行う時点において十分な準備金の裏付けがなくとも,他からの準備金調達を見込んで銀行は預金創造による貸出に踏み込んでいく。
「銀行は貨幣を貸付けるにあたって手元に貨幣をもっている必要がない」のである。」






以下に引用する『通説的信用創造論(所謂フィリップスの信用創造論)の批判的検討』は、極めて重要ではあるが難解でもあるので、私自身の解説を蛇足ながら付け加えさせていただいた。

『通説的信用創造論(所謂フィリップスの信用創造論)の批判的検討』(井汲明夫/城西大学経済学部)

【第1の批判】

「先に見た『図説』(引用注:『図説 わが国の銀行』旧版)の最初の段落では「取引先から現金や小切手を受け入れることによって預金を創出する」のが「本源的預金」であり、「貸出金を借手の口座に払い込む形で預金を創出する」のが「派生的預金」であると規定しているが、受け入れた預金を「創出」と呼ぶ奇妙さは兎も角基本的にフィリップスを踏襲しており、一見すると通説でもこの2種類の預金の区別が明確であるかのようである。

しかし①から⑤までの具体的説明については「以上は、現金が次々に動いてゆくこととして説明した」と明言されている通り、貸出は現金で行われるとされている。であるならば「貸出金を借手の口座に払込む形」での派生的預金は初めから存在しようがないことになる。他方では、②でA銀行から貸出されて流出した現金は③で他の銀行に預金されるが、これは「取引先から現金や小切手を受け入れることによって」創出された預金であるから本源的預金である。

……つまり、創造されたという預金残高が総て本源的預金であるということになる。
……ところが次には「実際に貸出をする時は……通常、借り手の当座預金に入金されるので、銀行が貸出をした分に等しい当座預金が増えることになる。銀行はこのようにして預金通貨を創り出す」と述べられているが、文脈上この当座預金(預金通貨)は例えば借り手Pの口座であって、Pから支払われたQの口座ではない。ここで再び派生的預金が問題にされているのだが、この形態の預金は①から⑤までの具体的説明には全く登場しなかったのである。さて銀行の信用創造機能によって創出された預金とは、先の本源的預金のことなのか、それともこの派生的預金のことなのであろうか。
……通説では、理論的には貸出が現金でなされようが、借手の口座に払込む形でなされようが、貸出しの形態などはどうでもよい事柄なので……「貸出金を借手の口座に払込む形で預金を創出すること」は信用創造(引用中:通説的信用創造論における信用創造のこと)とは無関係であるにも拘らず、この派生的預金の創出に対する未練が断ち切れずに曖昧な説明が頻出するのである。これが第1の批判である。」(引用注:通説である一行不能、全行可能説への批判にもなっている)

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【第1の批判:解説】

『通説』が”本源的預金”、”派生的預金”と安易に呼び分けている代物が、実はきちんと区別できてはいないではないか、という批判である。
具体的に言うと、通説中で本源的預金と定義づけられているのは、おおざっぱに言えば現金預け入れによって生まれた預金である。
しかし、通説では他行への払い込みを伴う融資を信用創造と定義しており、その際必ず同額の現金資産の引出ないし移動があるということになっている。
したがって、現金預け入れによる預金発生を本源的預金と定義づけるなら、通説的信用創造によって生まれた預金もまた本源的預金となってしまい、本源的預金と区別すべき派生的預金の存在が全くないことになる。
以上より、通説はまず定義の部分から狂っており、まずは派生的預金の正常な定義を目指さなければ、通説を検討することすらできないということになる。
次の項で井汲は、融資によって創出された借入者の銀行預金を派生的預金Ⅰとし、それが(現金の移動を伴いつつ)他行に振り込まれたものを派生的預金Ⅱと定義することで、議論の整理を試みている。

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【第2の批判】

「100の現金では1回に100の商品価格が実現される。
……100の本源的預金は(引用注:融資による)乗数効果によりほぼ900の派生的預金Ⅰ(引用注:融資によって追加される"借入者の"銀行預金)を創出し、その派生的預金Ⅰは合計900程度の商品価格を実現することによって消滅し、代わって900程度の派生的預金Ⅱ(引用注:派生的預金Ⅰが、現金の引き出しと移動を伴いつつ振り返られたもの。現金の預け入れによって生じた預金を単に本源的預金と定義するなら、これも本源的預金と言うことになる)を形成する
……各銀行に残された準備金の合計額は100であるが、この間漸減しながら現金が銀行間を転々流通して、流通した金額を合計すれば900となる。しかし現金取引で転々流通する現金にも同様の「乗数効果」があり、むしろ現金取引であれば同じ現金が9回の回転で900の商品価格を実現し、80回では8000の商品価格を実現し、流通した金額を合計すれば8000であり、もちろん100の現金は最後の売り手の手許に残る。しかも時間の経過とともにこの数は限りなく増大し、決して0には収斂しない。つまり現金のまま使用した方が無限に乗数効果が高いことになる。……一体「信用創造」の意味はどこにあるというのだろう。
信用創造は例えば銀行が預金通貨を創造することと定義されるが、それが創造と言われているのは現金の乗数倍の信用貨幣を生み出すことによって現金の量的限界を突破し、現金取引よりもはるかに大きな商品価格を実現できると考えられたからではなかったのか。しかし上に見るように通説の場合と現金取引の場合を比べると乗数の倍率は現金の方が無限に高いのである。
……派生的預金(引用注:派生的預金Ⅰのこと)は形成されたものの現金とともに他行に流出してたちまち消滅し、替わって本源的預金(引用注:派生的預金Ⅱのこと)の残高が形成されたのである。つまりこれは信用創造ではなく、貨幣の又貸しつまり信用媒介によって貨幣が幾度も流通すること、つまり貨幣の流通速度がもたらす効果なのである。
……現代の銀行制度では、貸付は必ず借手の預金口座に預金額を設定するという形式で行われ、「直接現金が貸し付けられるということは決してない。現金を借りたい者も、借りた現金から債権者として現金を引下すのであり、このような形式が混乱した理解を生む一因であろうが、なぜ現代の銀行制度の下ではそのような形式をとらざるを得ないのかは通説の問題意識の外にある。
これが第2の批判であるが、通説的信用創造論は単に貨幣の流通速度を述べたに過ぎないという批判は何も真新しいものではなく、マルクス経済学者等によって夙になされている標準的批判である。しかし具体的に現金の場合と比較して検討しなかったので今一歩その意味するところが明白ではなかったように思われる。現金ならばこの過程が無限に繰り返されるのに、通説では0に収斂して終わってしまうのである。」

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【第2の批判:解説】

通説的信用創造では、融資とそれによる派生的預金Ⅱの創出にあたって、必ず同額の銀行保有現金の移転が起こることになっている。
もちろん、融資を行う銀行は、元からある預金に対する預金準備を必要とするため、一部の現金は準備に回しておかなければならず、それにより融資・派生的預金Ⅱの創出は制約され、最終的には創出能力は0になる。
こうした融資→購入→預金の現金移動サイクルで生じる購買力の創出が、通説的信用創造における信用創造の効果とされているのだが、実際にはこれは、貨幣(現金)の流通速度による購買力創出に過ぎない。
仮に、融資→購入→預金のサイクルを利用せず、銀行を介さずに現金を利用していれば、現金準備として退蔵されることがないので、通説的信用創造のように購買力創出能力はゼロに収束せず、無限になる。
つまり、銀行システムを利用する方が、購買力が制約されてしまう(現金のみを利用した方が、貨幣流通が促され、購買力が向上する)ことになるわけだ。これの何が「信用創造」なのか、というのがこの章の批判である。

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【第3の批判】

「通説のように仮定する(引用注:貸し出した預金が振り出され、そうして移動した現金を用いて貸出を行った場合)と、Q(引用注:貸出によって創造された預金(派生的預金Ⅰ)から振り出された現金を受け取り、B銀行に預金(派生的預金Ⅱ)した預金者)は受け取った金額を自分自身では使わずにこれを貯蓄性預金にしていることになる。
というのも、もしB銀行がRに貸出した後でQが自分の預金に対して小切手を振り出そうとしても、その小切手を支払うべき準備金を銀行は持っていない(引用注:Rに貸し出した預金が他行に振り込まれ、その際にB銀行保有の現金が流出しているので)し、あるいは預金を現金で引下ろそうとしても銀行はその要求に応じることはできないのである。
ここで仮定されている状況の下では90の小切手の振出しは90の準備金の流出を伴うので、準備金が9しかない(引用注:現金流出を伴う又貸しの結果)のではQにはこうしたこと(引用注:小切手振出しや引き下ろし)は不可能なのである。
Qが通貨として使うことのできる自分の預金は最大限預金額の10分の1、9にすぎないのであるが、この範囲で小切手を振出したり預金を引下したりすれば想定されている準備率10%を割ることになるのでそれもできない。
……つまり通説は、明言していないが実際には次のように仮定していることになる。、「銀行から貸付を受けた者は当然その預金を通貨として使用するが、それによって支払いを受けた者は預金通貨として受取った預金を通貨としては使用せず、貯蓄性預金として不動化する。」
……結局通説のモデルは、銀行制度の内部には預金通貨は全く存在しない状態に収斂して終るのである。これが第3の批判である。」

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【第3の批判:解説】

融資が常に同額の現金移転を起こすという仮定を持っている場合、すでに融資を行った銀行における預金は、振出しも現金引出もできず、貯蓄として退蔵せざるを得なくなる。
というのは、預金者が他行振り出ししようにも、すでに銀行は手持ちの現金を貸出に回してしまっているという仮定なので、振出しに応じることはできず、現金引出も、残存しているわずかな現金準備の範囲でしかできないが、引き出してしまうと預金準備率を割ってしまうのでそれもできないからである。つまり、通説的信用創造論、又貸しモデルが妥当する場合は、銀行預金は基本的に全く流動性として活用することが出来ず、不動な貯蓄としてしか存在し得ないということになる。

これは背理的に又貸しモデルの誤りを浮き彫りにする推論である。


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【第4の批判】

「現代の銀行制度で一般の市中銀行の支払準備金と言えば、一つは預金の現金による引下ろしに備えての現金準備で…もう一つは中央銀行への預け金である、
ところで『図説』では明言してはいないが銀行組織の外部への現金の流出はない物と仮定していることは、85頁の上の表の計算で、支払準備金の合計を100と計上していることから明らかであるが、おそらくそれを自覚してはいない。
先に見たようにサムエルソンは現金の流出はない物と仮定していると明言しているし、川口・三木谷も「銀行組織からの現金流出は無しと想定して」いると明言している。だから通説で問題にしている準備金は現金による引下ろしに備えたものではないことは明らかである。
ではなぜ準備金、具体的には中央銀行への預け金は必要なのであろうか。
……A銀行にはXの100の預金に対して10の準備預金が残された(引用注:残りの90の現金は貸し出された想定)のだが、この10の準備預金では、与えられた仮定(引用注:他行への預金決済には常に同額の現金資産の流出を伴うという仮定)の下ではXが振出し得る小切手は10に過ぎないし、この10は法定準備率として強制されているとすれば、結局先に見たようにこのモデルでは本源的預金は引下ろされも支払いに使われもできないいうなれば拘束された預金なのであり、10の支払準備金は支払準備金としては実際には何の働きもしていないのである。
……このモデルでは、……現実の銀行制度には支払準備率rが与件として法定されている以上には準備金を残しておく理論的根拠はないのである。
ところがそうであれば、通説のモデルでは法的には兎も角、理論的には本源的預金(負債)によって銀行が資産として保持している現金の全額が貸し付け可能となるのである。
……このように現実の銀行の信用創造能力に大きな影響を与えている支払準備金が必要な理由は、通説の内に見出すことはできない。これが第4の批判である…」

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【第4の批判:解説】

第3の批判と関連するが、もし融資が常に現金移転を伴い、融資を行ってしまった銀行では法定準備分しか現金準備がないために、預金者が振出しや引出を全く行えないとすれば、法定準備が必要な理由が全く見いだせないとする批判である。
というのも、こうして設定された法定準備は、少しでも移転してしまえば預金準備率を割ってしまうので、支払準備としても引出準備としても全く機能しえないからである。
つまり、通説的信用創造論・又貸しモデルの仮定(融資による預金創造が常に現金移転を伴うという仮定)では、準備預金の必要性を全く導くことが出来ないのである。
したがって、準備預金の機能と必要性を説明するには、又貸しモデルとは全く異なる議論を行わねばならない。

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【第5の批判】

「Pはどこからか返済のための現金または小切手90を獲得しなければならないことは確かである。
ところでこのモデルの内部ではそのための現金90はB銀行以下の銀行に分散して準備金として沈殿してしまっているので、Pはこのモデルの外部から返済資金を調達してこなければならないことになる。
こうしたことはQの預金の引下ろしにもRの借入れの返済にも当てはまるのだが、どの返済もこのモデルの内部でそれが可能となるためには、最後の当事者まで遡ってこれまでとは全く逆の順番を正確に辿って返済が行われなければならないが、そのためには最初の借手の借入れ期間が最長で、それから順繰りに借り入れ期間が短くなっていくなどと言うような全くあり得ない無意味な仮定でもするしかなく、結局このモデルでは返済を説明することが出来ないのである、
このように返済のための貨幣はどこからどのようにして供給されるのかは、通説のモデルでは明らかに出来ない。
あるいは預金を引下ろすことが出来ないし、借手は借入金の返済をする事ができない。
貸出は必ず一定期間後に返済されなければならないのに、通説のモデルではこの返済を説明することができない点にこそ問題がある。これが第5の批判である。」

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【第5の批判:解説】

通説的信用創造論ないし又貸しモデルは、預金振出しに際し常に同額の現金の移転が伴うということを前提にしているので、大本の融資を返済するには、又貸しによって散らばって沈殿した現金準備を(末端の返済によって)回収しなければならない、ということになる。
そのためには、原初の融資の返済期間>次の融資の返済期間>その次の融資の返済期間……という条件が満たされていなければならない、つまり、融資の返済期間がどんどん短くなっていかなければならないということになり、こうした想定は極めて非現実的である。
つまり、又貸しモデルは、そのモデル内部で預金決済や引出が行えないだけでなく、返済を適切に説明することも出来ないのである。

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【第6の批判】

「流通・支払手段としての貨幣の流通を一般に考察する場合、それは一方向への流通を想定してよい。
しかしこれまでもしばしば見てきたように、預金通貨の場合はその預金宛に振出された手形や小切手を、自己の手持ちの資産で一つ一つ決済していかなければならないという特質を持っている。
……つまり銀行は預金を通貨として流通させる前提条件として、流出する預金債務に対する決済手段としての債権あるいは他の信用貨幣を持っていなければならないのである。
通説のモデルでは銀行はこの決済手段として現金準備しか持っていないので、決済の度にこの銀行からは現金が流出してしまい、他方では残された預金には決済手段がなくなるのでこちらの方は貯蓄性預金とならざるを得ない事になる。
すでに見たようにこれでは預金は形の上では消滅しないにしても現金による支払いと同じであり現金流通と選ぶところがなく、何故現代の銀行は決して現金を貸出さず、必ず預金創造の形式でのみ貸付けるのかが説明できないのである。
……さて、ある銀行Aに対して別の銀行Bが支払いを求める手段は小切手なのであり、これは個々の取引先の当座預金口座から支払われるとはいえB銀行に対してA銀行の負う債務として現実化される。
ところでA銀行は正に相手銀行Bがそうであったように、一般に資産として他行払いの小切手を所持しているものである。
つまり良く知られているように、銀行は他行に対しては債権を保持しているのであるからこの債権で債務を支払う、つまり相殺することによって決済を行うのである。
……この事によって始めて現金の流通が不要になり預金が通貨として機能するのである、
……このように預金通貨の流通は常に流出と流入の双方向への流通によって構成されており、預金は必ず銀行単位での反対方向への流通が存在する、あるいは自行内での振替が行われるという前提でのみ通貨として機能するのである。
……また不断に不均衡が発生するので必ず全額が相殺し合うというものではなく、流出先と流入先とが同一の銀行である必要もない。
この不均衡は手形交換では交換尻と呼ばれているものであり、これを決済するのが準備金である。
……法定比率での保持を強制されているこの支払準備金には中央銀行からの現金引下ろしに備えている側面もあるが、信用創造との関連で重要なのはⅢでみるようにこの手形交換等の決済資金としての機能である。
……通説ではモデルそのものが預金が通貨として流通する上の条件を欠いているので、このモデルで預金通貨の創造を論ずることはそもそも不可能なのである。これが第6の批判である。」

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【第6の批判:解説】

既に見てきた通り、預金決済が常に同量の銀行保有現金の移動を伴う場合は、銀行預金は通貨として機能することが出来ず、単に貯蓄性資産として死蔵することしかできなくなる。
それでは、現実の経済で銀行預金がそれ自体独立した通貨(決済手段)として機能するのはなぜなのだろうか。
それには二つの経路がある。一つは、同一銀行内での振替。もちろんこれには銀行の現金資産の拠出は必要にならない。
もう一つは、銀行間での預金の双方向の流出入。これに対し銀行は、銀行間で債権・債務の相殺取引を行い、その際当然ながら現金資産は必要にならない。この二つのケースでのみ、銀行預金は現金とは独立した通貨として機能することが説明できるのである。
また、これによって、通説的信用創造論(又貸しモデル)では説明できなかった準備預金の機能も説明できる。
準備預金は、(現金引出を除けば)銀行間相殺取引の不均衡である交換尻を決済するために機能するのであり、又貸しモデルのような必要性の不明瞭のものではまったくない。
裏を返せば、通説的信用創造論は、銀行預金が(現金を超越した)決済手段として機能する形態、及び準備預金の必要性を論じることが出来ていなかった、ということがいえる。

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【正しい信用創造理解】

「多くの銀行で多くの取引先に対して預金創造による貸付が行われ、現金での預入は行われた口座も含めて、それぞれの口座から様々な金額の預金が流出しまたそれぞれの口座に様々な金額の預金が流入する。
それぞれの銀行には平均的にはそれ程大きくはないある程度の相殺し切れない差額が残り、これを決済するために経験的に知られるある程度の準備金が必要であり、これは先に述べたように現代では通常中央銀行預け金として存在している。
……こうした信用創造論は通常一行可能説と呼ばれているが、上に見たようにこの説も孤立した1銀行が他の銀行あるいは銀行組織全体と無関係に信用創造が可能であるという説ではなく、他の銀行あるいは銀行組織全体との関係の中で、それぞれの銀行が大体同一の歩調をとることによって個別1銀行の貸付は直ちに信用創造となるという説である。
これを数式で表せば、銀行が負い得る預金債務の限界はD=c/r(引用注:cは現金、rは準備率)となり、Dから現金cによって形成された預金額を差引けば、派生的預金の創出限界値、X=c(1-r)/rが得られる。
つまり準備金が銀行組織の外部から預金によって流入している上のような状況下では数式は通説と同じになるが、DやXは可能性としての限界値であって、例えばcの増加が銀行貸し出しの必然的増加をもたらすというわけではない。」

――――――――――――――――――
【正しい信用創造理解:解説】

これまでの批判を踏まえ、実態に即した信用創造理解が示されていく。
銀行内振替ないし銀行間相殺取引の結果として、銀行預金は独立した決済手段として機能する。
もちろん、一定の預金規模に対しては一定の交換尻の発生が予想されるのであって、預金額に対して応分の準備預金調達が必要になるだろう。
その点において、準備預金が信用創造の『制約』になる部分はある。
しかし、本質的には、準備預金は信用創造された預金の決済に際して事後的に必要になるのであって、又貸しモデルのように、準備預金の拠出によって天下り式に融資が行われていくわけではない。

したがって、又貸しモデルや信用乗数モデルが示すマネーサプライ供給量は、実際にはマネーサプライの上限量でしかなく、例えば準備預金の追加が必ずしも預金通貨の増大をもたらすものにはならない。


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