おはようございます。


「何故、新聞の政治面が似ているのだろうか?」


たまにそう思われる事はありませんか?


私はそう思う時があります。


個性ある記事をみた時には興奮を憶え、集中し記者の力作を読む時も。


また永田町には、そういう熱心な「記者魂」を持った政治部記者がいるのも事実。


他方、過去と比較したら昨今殆ど記事内容が同じ。


この写真は最近の永田町で、屡々目にする光景。


自由民主党本部にて、中山泰秀撮影



取材後に円陣を組み、取材内容を同業他社とすり合わせしているのか?


ある意味「瓜二つな政治面」の要因を作り出している様にもみえる。




先日、広島・長崎で開催されている、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での総理のあいさつ原稿に対し、その内容が「瓜二つ」であると指摘し、批判する記事を目にした。


https://mainichi.jp/articles/20200810/k00/00m/040/241000c



記事中にある、厳しいご指摘を受けた上で。


私は、日本人のみならず世界中の人々が広島・長崎で原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、哀悼の誠を捧げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げる機会であると同時に、今も尚、被曝の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げる機会であると考えている。


読者の皆様も、恐らくお葬儀に参列された事はあると思う。各方面から届く故人やご遺族に対する思いの込められた弔電。聞いていると分かるが、文面や内容はほぼ同じだ。打って変わって結婚式の祝電なども、ほぼ同じ。


総理の広島、長崎の追悼挨拶文と比べるなとのご指摘もあるとは思うが、冠婚葬祭の機会、入学式や卒業式など、式典の挨拶は殆ど変わらないのも現実なのではないだろうか。


批判する必要がどこにあるのだろうか?批判ではなく、提案をしてはどうか。


普段から、総理や政治家が思いを自由に申し述べることができる環境や機会をつくって欲しい。何か言えば、今度はまた批判が飛んで来たり、所謂「言葉狩り」をされる様では、本末転倒だと思う。自由にものも言えない。だから形式的な言葉になってしまうのかも知れない。このイービルスパイラルを断たねばならないのではないだろうか。


さて話は元に戻るが、「瓜二つ」な点で言えば、最初に記したマスコミ政治面の記事は昨今「瓜二つ」なものが目に付く。


マスコミの政治記事も、総理や政治家の挨拶も、「瓜二つ」では面白味に欠けるのではないだろうか?


批判ばかりが自由に行われ、それが為ギスギスした世の中になっているのであるならばこそ、肯定も自由に行える事を可能とする、寛容の精神をカウンターバランスにおく事も重要な観点だと思う。


また、日本における「瓜二つ」現象を生んでしまったそもそもの原因は、教育なのかも知れないとも思う。


隣国の中華人民共和国・共産党一党独裁政治とは異なり、日本では自由にものが言える、自由にものを考えられる、自由に信じる事ができる。


それら、自由が日本にはある。


自由民主主義国家に生きる喜びを、お互いに謳歌したい。


他方、中華人民共和国・共産党一党独裁の政治から苦しめられている、香港人等に代表される自由を愛し、民主主義を信じる人達の人権状況や環境を、少しでも良い方向に向かわせたいという強い意思が、世界中の自由民主主義国家には存在しているという事も、同時に記憶し、記しておきたいと思う。


自由に、「瓜二つ」すら許されない、そんな国ではない日本で、ある意味良かったと思う。


先人の皆様、ご先祖様のご労苦に対し、心からの感謝以外無い。



中山泰秀