三島由紀夫論 ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

※最高峰の三島由紀夫論、完結です。

 

生きるための哲学があります。それと同時に死のための哲学もあります。哲学の言葉を変えて「文化」と言ってみると、死のための文化があり、生きるための文化があります。古来、良い文明というものは、そのバランスが取れているのです。生きるための文化があり、死ぬための文化も用意されているのです。

ところが、現代社会というものは、死のための文化は全く無視されて、無いものとされています。病院で息を引き取ると、「御臨終です」と言われて、霊柩車が来て、焼き場に連れていかれて、パッと灰になってしまいます。灰になると人間はもうなくなってしまいます。

病院で次から次へと人が死ぬと火葬場に死体が持っていかれて、焼かれてお終いになってしまうのです。これでは、死のための文化が全くありません。

今の日本は、生きるための文化は用意されているのです。美味しいものを食べて、良いホテルに泊まって、レジャーを楽しんで、楽しいことが沢山用意されていますが、死のための文化は用意されていません。

これが文明として偏っているのです。文明は両方なければいけません。「死のための文化とは、一体何か?」というと、これが神風特攻隊です。これが日本文化です。日本文化は両方もっているのです。

アメリカでも、西洋でも、「死の文化」はありません。日本だけが「死の文化」を持っているのです。そのようなところから考えてみると、特攻隊の若者は二十歳くらいで死にました。すると生きるためだけの哲学を持った人間は「お可哀想に」と思うのです。

ところが、死の文化を持った人から見ると「特攻隊の青年は幸せではないか」と思うのです。しかも、「最高の幸せだ」と言っているのです。体も健康、やる気も充分にあります。気力も精神も体力も全てが健康です。

その肉体が健康な時に「死を通してやりたいことがある」。これが、死の哲学であり、死の文化です。これが一番幸せなのです。生の文化しか知らない人は、「特攻隊の青年はお可哀想」と言うのです。

死の文化を理解した人は「人間は必ず死ぬのだから、これも文化だな」と思うのです。「最も健康な時に、生き甲斐のあることをやって死にたい」というのです。国のために、父母のために、歴史のために、一番健康な時に、一番調子がよい時に決行するのです。それが最高の生き甲斐です。「死に甲斐は、即生き甲斐なのだ」というように文化をとらえているのです。

だから、三島先生は暴力を否定していません。最期は、自分も暴力を振るったのです。暴力は否定しません。話し合いで、「みんなの意見を聞いて」とか、おこがましい意見はありません。

そのようなことを積み重ねてきた時に、三島先生は自衛隊の乱入をやったのです。市ヶ谷駐屯地乱入事件です。あれは、どのような事件だったのでしょうか?

三島先生は「憲法はおかしい」と考えたのです。屁理屈はどうでもよいのです。憲法は、自然法ではありません。人為的につくられた憲法です。自然法の人間は、敵が来たら戦います。

「戦ってはいけない」と言われたら、自然法ではありません。憎らしい敵が攻めて来たら戦うのです。それができない憲法です。どんな敵が来ても「戦ってはいけない」「交戦権を認めない」と書いてあるのです。

敵と戦えない憲法をGHQに押し付けられて、「今こそ憲法をかえるぞ!」と言いながら、唯々諾々とやらなかった自民党が悪いのです。誤魔化して、憲法を改正しないように、ずっとやってきたのです。

だから、「安倍さんには憲法改正はできない」と僕は思ったのです。「この男に憲法改正はできない」とわかっていたのです。それを三島先生がやったのです。

そのために青年を訓練して「憲法のために死ぬ奴はいないのか!」と言ったのです。こんなおかしな憲法を持っていたら日本は滅びてしまいます。だから、「憲法のために死ぬ奴はいないのか? 自衛隊の諸君しかいない」と三島先生は思ったのです。

ところが、自衛隊もそうではなかったのです。三島先生は楯の会の軍隊を自分でつくり、事件を決行したのです。軍刀を下げて堂々と市ヶ谷駐屯地の正門を入っていったのです。これも三島先生の美学です。人間は「死ぬ」と一旦決めたら、怖いものなど何もありません。

もう死ぬのですから、「刑務所に入れられる?」そんなことは、もう関係ありません。「裁判をかけられる?」冗談ではありません。「俺はもう死ぬのだから、何の関係もない」そう思った瞬間、世界はパッと明るくなるのです。

今までは下を向いて生きてきて、「俺はもう死ぬのだ」と決めた時に、楯の会の五人で市ヶ谷駐屯地に乗り込んだのです。軍刀を下げていたのは、三島先生だけです。当然、門番に呼び止められて、「先生、お腰の物は何ですか?」と聞かれて、「ああ、これか。これは、指揮刀だよ」と答えたのです。すると、門番は、「そうですか」と言って、通してしまったのです。

ズカズカと入っていき、総監室にたどり着いたのです。ドンドンドンドンとドアを叩いて「三島です」と言うと、「お待ちください」と言われて、総監がドアを開けた瞬間に5人がドッと乗り込んだのです。

いきなり益田総監を縄で縛り上げたのです。「何をするのだ!」と聞くと、三島先生はバルコニーに出たのです。「もう死ぬ」と決めているのだから、何も怖いものはありません。

バルコニーで演説をしたのです。「私は何十年も待った。こんな憲法を守って諸君は死ぬのか? それでも日本の武士か!」と演説したのです。すると自衛隊からは、「文士、ひっこめ!」「バカ!」「お調子者!」「カッコつけているんじゃないよ。コノヤロウ!」と罵声を浴びせられたのです。

その時の自衛隊員の罵声がテープに残っていますが、全く自覚がありません。「カッコつけているんじゃないよ。自衛隊をナメるんじゃないよ」という罵声が飛んだのです。「わかった。もうこれ以上、言うことはない。諸君たちの気持ちはわかった。武士の魂を見せてやる!」と言って、三島先生はバルコニーの中に入ったのです。

益田総監は縛られています。総監の目の前で三島先生が腹を出して変な格好をしているから、総監は「止めてくれ」と言ったのです。総監にも三島先生が腹を切るとわかったのです。

総監の目の前で「武士の魂を見せてやる。エイ、ヤー!」と気合を入れて、腹を切ったのです。ところが、腹を切っただけで人間は死にません。人間は首を刎ねないと死にません。

特攻隊の生みの親である、大西瀧治郎は、割腹自殺をしたのですが、15時間も生きていたのです。「止めるな。介錯は不要だ。俺がどれだけの人間を死なせたかわかっているのか。どれだけ苦しくてもよい」と言って、15時間も苦しんで死んだのです。

三島先生は演出家でもあります。森田必勝が三島先生の首を斬り落とそうと思うと、首は斬れなかったのです。三島先生の頭蓋骨に当たってしまったのです。何故かというと、三島先生は腹を切った時にのけぞってしまったのです。

刀は深く刺すと筋肉が萎縮してしまいます。すると、首が硬直して斬れなかったのです。本当の切腹は浅く切るのです。切る真似でもよいのです。すると、スパンと首が斬れるのです。

三島先生は深く短刀を腹に突き刺したので、筋肉が硬直してのけぞり、介錯の刀が後頭部に当たってしまったのです。森田必勝は3回目に首を斬り落としたのです。森田必勝の首は楯の会のメンバーが斬ったのです。結局、2人が切腹したのです。森田必勝の首は上手く斬れたのです。

これが三島事件の大筋です。この時に僕は偶然、市ヶ谷駐屯地の前にいたのです。ヘリコプターが飛んできて、ラジオからは「三島先生が自衛隊に乱入」というニュースが入っていたのです。市ヶ谷会館の正門の前で楯の会のメンバーが、100人くらいズラリと並んで泣いていたのです。そのような事件です。

その時の夕刊に司馬遼太郎がズバッと書いたのです。みんな、この事件は何だかわからなかったのです。司馬遼太郎はこの事件をよく見ていて、一気に書いたのです。夕刊2面を使って書いていました。確か「革命の元亀」というタイトルだったと思います。

「11月25日は、吉田松陰の命日である。吉田松陰はなぜ、死んだのか?」というと、革命の元亀(元)になろうとしたのです。吉田松陰は、道を曲がりません。曲がった道は真っ直ぐ歩くのです。

よけたりしません。真っ直ぐ歩くのです。これは、譬えです。もちろん、家があったら、真っ直ぐ歩けません。生き方としては、道を真っ直ぐ行くのです。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしません。

吉田松陰は死ぬ必要はなかったのです。自分で「暗殺しようと思った」と言ったのです。そんなことを言えば、お縄になってしまいます。文章で「暗殺する」などと書いたものもなかったのです。

自分が「私は暗殺しようと思いました」と言ったのです。すると役人に捕まって、死刑になってしまったのです。それはそれでよいのです。吉田松陰は、思ったことを本当に言ったのです。

本当に言ったからといって、その結果どうなろうと、吉田松陰には関係ありません。牢獄に入れられて、切腹の日が来ます。みんな、首を斬られる時には、恐れるのです。どんな罪人でも「うわー、助けてくれ」と身もだえるのです。

しかし、吉田松陰だけは違ったのです。パッと首を差しだしたのです。「目隠しはいらない」と言い、スパッと首を斬り落とされて、それでお終いです。辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」です。吉田松陰の人生は終わったのです。それは、革命の源になろうとしたのです。そのような死に方をすると革命の元になるのです。

忖度したり、ずるく立ち回っていたら、革命の元にはなりません。まず、「自分が死ぬ」ということを見せたのです。松下村塾の連中は、「先生が、先生が、・・・。」と言って、遺骸を取りに来て、大変な騒ぎになったのです。

それで、「革命をやる!」という覚悟が決まったのです。そのような決意をしたのです。それと同じで、三島先生もそうです。三島先生が割腹自殺をしたおかげで日本人に魂が入ったのです。

これを日本神道では「魂振り」と言います。魂を振るのです。それで、日本国民の目が覚めたのです。今、日本が右翼的になってきたのは、その延長線上なのです。あの時は、誰もそんなことを考えてなどいなかったのです。

「三島のバカヤロウ、格好をつけるんじゃねーよ!」という罵声が飛んだのです。三島先生が割腹自殺をして「本気だったのか」とショックを受けたのです。まず、有名人では石原慎太郎が別人のように変わってしまいました。石原慎太郎は、それまでは左翼的なことを言っていたのです。湘南高校では、社会研究会をつくったのです。

石原慎太郎は、元々は左翼だったのです。それが目覚めてしまったのです。「三島先生が軍刀を吊って歩いている」と変なことを言いだして、変わってしまったのです。

今まで三島先生がやってきたことが、「本気だった」とわかったのです。石原慎太郎は、三島先生と対談をしたのです。その時に、三島先生は刀を持っていったのです。「天皇を否定したり、変なことを言ったらその場で殺す」と思っていたのです。それが本気だったということです。だから、石原慎太郎は、ブルッてしまったのです。

三島先生は、日本国中に魂ふりをしたのです。まず、自衛隊の諸君が魂振りをされたのです。だから、田母神閣下のような人も出てきたのです。自衛隊員は「俺たちは武士なのだ」と目覚めたのです。それまでは、運転免許を取りに行くような、土方のような自覚だったのです。

三島先生は「自衛隊の諸君は武士なのだ」ということを教えられたのです。今はもうそのような自覚です。自衛隊は武士です。そのような自覚が出来てしまったのです。それは、三島先生のおかげです。

それから、50年経って、このような時代になってきました。武力革命ではないけれども、革命の元となって、日本人の精神を奮い起こして、揺さぶった最初の男が三島先生だったのです。

これがわからないと三島先生の文学も、行動も何もかもわからないのです。このことを三島先生の命日に記憶しておきましょう。11月25日は、三島先生の命日であり、吉田松陰の命日でもあります。日本人はこのことをよく記憶しておきましょう。

 

 

 

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