コロナウイルスの後は世界的大不況 ② | 中杉 弘の徒然日記
新型コロナウイルスに関する情報について

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

君主は罰とご褒美の2つの柄をもって国民を操縦していくのです。罰とご褒美を二丙と言います。韓非子は「他の思想はいらない」というので、始皇帝は「これぞまさしく本当の教えだ」と言って喜んだのです。

 

 

唯物論を進めていくと、人間を殺してもよいのです。人間は「物」なのですから殺してもよいのです。人数が余っているならば、「処分、粛正!」と言って消してしまうのです。100人の人間がいて、20人しか仕事がない場合は、「80人は殺してよい」このような理論です。唯物論者にとって人間は「物」なのです。

 「人を殺すとは何を殺すのだ。人間は肉だろう。殺して食ってしまえばよいのだ」という考え方です。恐ろしいでしょう。唯物論の恐ろしさは、そこにあるのです。これは繰り返し日本人に教えていかなければいけません。

 杉並区会議員の洞口朋子に言ってあげればよいのです。共産主義者は人間を物だと思っているのです。だから、洞口さんは「革命のためならば、人間を殺してもよい」と考えているのでしょう。「大多数の人間を生かすためには、100人や200人殺してもいいのよ。革命には殺人がつきものだから」このような考え方になるのです。

 だから、共産主義者は人間を殺しても罪悪感がありません。人間を「物」だと思っているから、中核派や、革マル派は未だに殺し合いをやっているのです。中核派のグループは「天皇を殺せ!」というデモをやっています。それは昔からやっているのです。

 中核派は、「天皇は差別の象徴だ!」と言っているのです。「人間以上の物はないのだから、一人の人間に人間以上の力を与えることはおかしい」という理論です。共産主義者にとって神はいないのです。そのような考えです。

 共産主義者は、「聖書など読んではいけないのだ。神はいないのだ。あるものは物だけだ。人間だって物なのだから、邪魔になったらぶっ殺せばよいのだ」、というのですから、恐ろしい思想です。

 共産主義者は人をぶっ殺しても良心は痛みません。中国共産党主席「はい、お前達邪魔。半分は抹殺!」、人民「はい、喜んでやらせてもらいます」、このようになるのです。共産主義者は人殺しは平気です。人間を数で考えているのです。

 しかも、殺すのはよその国民ではありません。自国民に対しても、そのような考え方を持っているのです。偉いのは、主席だけです。それを守るためには、何だってやるのです。北朝鮮も全体主義国家ですから、粛正をやるのです。

世界の中で中国が一番悪いのです。資本主義で自由競争をやらせておいて、その自由競争の上に共産党がいるのです。これは悪いのです。

 商売をやっている連中は、みんな真剣にやっています。自由競争ですから、誰も上にはいないと思うと、ズラリと上にいるのです。それが中国の実態です。その下で自由競争をやっているのです。

 中国共産党の幹部が上から見ていて、自由競争をしている連中がはみ出したりすると、「はい、抹殺!」です。飛び跳ねて中国共産党の枠から飛び出した奴は、全て抹殺です。「天は共産党の上に人をつくらず」そのように考えているのです。

 共産党の主席だけが偉くて、あとは全て奴隷です。派閥を持って自分達の精力をつくろうとする奴は、みんな抹殺です。そうなのです。中国共産党の配下では、宗教的な書物を読む必要は全くありません。一切読む必要はありません。読んだら処刑です。

 孔子はなぜ中国で許されているのかというと、孔子の教えは処世術です。思想の本ではありません。孔子には、思想などというものはありません。「親を敬え。仁義礼智信だ」というのは、思想ではありません。孔子も唯物論者です。

 古代の唯物論が孔子の教えです。「このような奴は排斥しろ」「このような奴は埋めてしまえ」という処世術です。

 秦の始皇帝の時代になると、韓非子が出てきます。言うことはすごいのです。「俺の言うことが真実である」と言うのです。ということは、「他の書物は一切いらない。書物は毒になるだけだ。韓非子の書いた書物のみが、絶対である。その他のものは絶対ではないのだ。だから、孔子の本は全て埋めろ」ということです。

 始皇帝は「孔子の教えを教える学者は一切いらない。無用の長物である」と言って、本と人間を埋めたのです。韓非子は、「私のやっていることだけが正しいのだ。他の本は一切いらない」、そのように言ったのです。

 韓非子の教えはすごい教えです。謀略の書です。「天下を狙わんとする者は、まず君主に近づけ」、これは常識です。君主の側からいうと、「君主を褒めて近づいてくる奴を信用してはならない」と思うのです。両方ともに信用できないのです。

 「何故、君主を人々は恐れるのかとういうと、君主が2つの柄(え)を持っているからです。一つの柄は、罰を与えるものです。「君主に逆らうならば、罰を与える」と言われるので、罰を恐れるのです。罰が恐ろしくてみんな従ってくるのです。

 もう一つの柄はご褒美です。君主は罰とご褒美の2つの柄をもって国民を操縦していくのです。罰とご褒美を二丙と言います。韓非子は「他の思想はいらない」というので、始皇帝は「これぞまさしく本当の教えだ」と言って喜んだのです。

 悪い家来は、「王様は立派だから罰など当てると嫌われます。罰は私が与えましょう。王様はご褒美だけあげてください。そうすれば世の中は上手く治まります」というのです。

 韓非子は「そのように言って、君主に近づいた奴は殺せ!」と言うのです。罰などを与えたら、そいつに権力がいってしまいます。国民は罰を与えるほうを恐れるのです。王様はニコニコ笑って褒美だけをくれたら、王様を恐れなくなってしまいます。

 王様が、「お前を殺す!」と言うと震え上がってしまいます。だから、罰を離してはいけません。王様は罰と褒美を与える二丙を離してはいけません。この2つを持って王様は国民を操縦していくのです。

 そこから韓非子の教えは始まるのです。韓非子の教えは政治哲学ですから、人間的な潤いは何もありません。「人間とは何であるのか?」そのような考えは一切いりません。「みんなぶっ殺して埋めてしまえ」というのです。

 始皇帝は喜んだかもしれませんが、このようなことで統治しても、それは限界があります。それも一種の唯物論です。中国の古代思想は全て唯物論です。だから、昔から中国人は人肉食いができるのです。唯物論者だから人肉が食えるのです。

 「人間の背後には神がいるのだ。人間は神と一体なのだ」と言っていたら、唯物論者などできません。中国人は「人間は物なのだ。犬や豚を扱うのと同じなのだ」と思っているから、共産主義国家を生んだのです。

 叱咤激励をして、「やれ!」と言われてよくやったら、ご褒美を与えて、やらなかったら首を刎ねて殺して食べてしまうのです。中国人にとって人間は物なのです。それが中国の古代思想です。

 それが現代になって中国共産党の唯物弁証法の思想につながっているのです。「人間は物である」という思想が共産主義思想を生んだのです。だから、中国人にとって情けはありません。

 「この人間が可愛そうだ」という考えは微塵もありません。中国共産党は「必要なことはなんでもやれ。ハニートラップでも、なんでもやるのだ。人肉も必要であれば、食ってしまえ。どうせ人間は物なのだよ。怯えることはない」という考えです。「死んだらどうしようか」などと怯えて考えることはありません。

 「死んだら物はないのだから、物はないのだ」という考え方です。このような唯物論の思想が受け入れられて、今日まできたのです。中国人に情けはなしです。中国人に真実はなし。中国人に真実の歴史なし。恐るべき野蛮人の集団です。これが唯物弁証法を信じる連中の真実の姿です。

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

 

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

 

『中杉 弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137