天皇と邪教 ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 天皇は何が尊いのでしょうか? 思想が尊いのか? 歴史が尊いのか? 制度が尊いのか? いろいろありますが、天皇はやはり歴史が尊いのです。

 「歴史が尊い」ということは、天皇が何を考えようと何だろうとそれはあまり尊いとは限りません。「歴史が尊い」とは、どのような意味なのかというと、天皇の血筋が尊いのです。天皇には誰もなれません。天皇の血筋の者でなければ、天皇にはなれないのです。天皇が血液を守ってきているのです。それが尊いのです。

 天皇の血は尊いけれども、「天皇が考えていること、天皇が思っていること、或は天皇が拝んでいる仏教が正しい」ということではありません。それを混同しないようにしたほうがよいのです。

 ということは天皇でも、いろいろな間違いもあります。過去には島流しになった天皇もいます。四国に流された崇徳天皇は、京都にいる天皇を恨んで爪も髪も伸び放題です。佐渡に島流しになり、頭の上に焼き石を載せて恐ろしい形相で死んだ天皇もいるのです。

 日蓮大聖人様(1222年―1282年)は、「承久の乱(1221年)では、後鳥羽・土御門・順徳の上皇が3人も島流しにされた。天皇の家来である北条家が威張っていて、なぜこのような現象が起きたのだろうか?」という疑問が、きっかけになって、天皇について考えられたのです。

 天皇の血筋は尊いのです。しかし、天皇が保っている仏教が正しいわけではありません。血筋だけが尊いのです。今後も我々はそのような目で天皇を見なければいけません。天皇が考えていることが、「みんな正しい」ということはあり得ません。血筋は尊いけれども、間違いもあります。今回の眞子様事件は、如実にそれを物語っています。

我が国に仏教が伝えられたのは、538年です。百済の聖明王より我が国に一体の仏像が贈られてきたのです。約30センチの金と銅でできた仏像らしいのです。

 日本以外の国は、天竺を始め唐の国、みんなこれを拝んでいたのです。「日本もこれを拝んだらどうか?」ということで、天皇に仏像が届けられたのです。その仏像を天皇はどうしてよいかわからなかったのです。

 「では、誰か拝んでみるか?」と天皇が聞くと「そんなことをやったら我が国の古来からの神が怒り、罰がでます」と物部氏が言ったのです。帰化系の蘇我氏が「私が拝んでみましょう」と言うので、蘇我に仏像を拝ませたのです。仏教が受容されたのではなく、仏像が受容されたのです。

 すると悪いことがたくさん起きてきて、疫病が起きてきて、都中に広がったのです。「これは我が国の神の祟りだ。異国の神を拝むから祟りが出たのだ」と物部氏が言うので、仏像を拝むのをやめて、池の中に仏像を放り投げたのです。

 すると違う種類の疫病が都で流行ってきたのです。「あの仏像を捨てたから災いがなくなると思ったら、今度は仏像を捨てたから疫病が流行ってきた」と考えたのです。それで「両方を大事にしよう」と朝廷が決めたのです。

 まず、仏像を皆が拝むわけにはいかないから、蘇我氏に拝ませたのです。これが仏教の始まりです。この結末は、崇仏派と崇神派に分かれて、戦争にまでなってしまうのです。それで仏教派が戦争に勝ったのです。

 大化の改新など行われて、聖徳太子も出てきて、仏教は国を巻き込む大変な騒ぎになってきたのです。それから徐々に我が国に仏教の教えが入ってきたのです。最初、経典はありません。何教というものでもありません。ただ「仏像を拝め」というだけです。

 だんだんと経典が入ってくることによって、仏教というものがわかってきたのです。しかし、何が何だかチンプンカンプンです。経典は8万4千巻あります。何を信じてよいのかわかりません。経典はみんな違うことが書いてあります。涅槃行、無量義経、般若心経、法華経、みんな入ってきて、違うことを言っているのです。

 「これは阿弥陀経である。阿弥陀仏が世界を救う」と言ってみたり、「法華経が世界を救う」と言ってみたり、それぞれ違うのです。「この中から好きなものを拝めばよいのだろう」というのが、当時の人々の考え方です。

 8万4千巻も経典があるので、仏教は勉強すればするほどわからなくなってしまうのです。それを唐から帰ってきた空海(774年―835年)が「仏教とは密教だ。私は唐から帰ってきて、仏教を学んでよくわかった。密教こそが本当の仏教です」と言って朝廷に進めたのです。

 嵯峨天皇(786年-842年)は空海から話を聞いて、密教に狂ってしまったのです。何しろ、密教は火を焚いたり、印を結んだり、マントラを唱えたり、不思議なことをやります。その怪しい魅力に天皇は引き込まれてしまったのです。

密教は理解できません。天皇は「これからは密教だ」と言って、高野山金剛峯寺を建てて、国教にしようとして、醍醐天皇(885年―930年)が空海を弘法大師にしたのです。大師とは、「国の師」という意味です。天皇は「みんな、弘法から仏教を習うように」と言われたのです。

聖武天皇(701年―756年)は「大仏を造る」と言いだしたのです。743年には、東大寺盧舎那仏像の詔を出しています。当時、大仏は中国では磨崖仏(まがいぶつ)と言われて、崖に掘っていたのです。何十メートルある、大仏を掘っていたのです。聖武天皇は、金と銅で仏像を造ったのです。それが東大寺の盧舎那仏像です。

「仏像を造ったら国中の人が「有難い仏ができた」とひれ伏してくれるだろう。まず、私がひれ伏す」と言って聖武天皇が大仏にひれ伏したのです。今の東大寺の大仏はまっ黒で光っていませんが、当時は金造りです。「私は仏の未奴(みやっこ)である」と言ったのです。未奴とは、「仏の奴隷」という意味です。「私は仏の奴隷である」と言い、国中に国分寺を造ったのです。

仏教にもよいところはあります。仏教医学などがあり、坊さんは薬の知識をもっていたのです。仏教だけではなく、そのようなことも知っているので、魅力的に見えたのです。西洋人が未開の土地に渡り、西洋文明をもっていきます。汽車やビルを見て、しびれることと同じです。当時のお坊さんは教養をもっていたので、「それが仏の智慧なのだ」と、みんなしびれたのです。(②に続く)

 

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