韓国人に言葉は通じない ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
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 北朝鮮の問題でもいろいろと言われていますが、「朝鮮人はどんな約束をしても全て破る」と言われています。日本が北朝鮮に米を50万トンあげたのですが、金正日は「あいつらは米があまって使い道がないのだよ。だからもらってあげたのだ」と言ったのです。朝鮮人に感謝という気持ちがないのです。

 北朝鮮は貧乏国でお米をもらっておきながら、「もらってやったのだ」という不愉快な言い方をするのです。こんな言い方をする奴がいるのでしょうか? 朝鮮人は約束を全て破ってきているのです。韓国も同じです。全ての約束を破るのです。

 韓国人・朝鮮人と約束しても何の意味もありません。言葉を破る朝鮮人と約束をしても意味がありません。このような現象を見ていると「こつらは人間ではない。原人だな」という発想が出てくるのです。「我々は人間ではない。我々は原人である。」と北朝鮮の歴史教科書に書いてあるのです。

 「言葉というものが、どれだけ大きな意味を持つのか?」ということを考えてみる必要があります。日本人は言葉を大事にする国民です。昔から、「言霊のにぎわう国」と言われてきました。非常に言葉を大事にするのです。女性文学の源氏物語は、世界最古の小説です。言葉を大事にしているから、文学も生まれるのです。それと同時に「言葉は命である」という考え方もあります。

 命というものは目に見えないから、目に見える言葉に成って出てくるのです。日本には「言葉は神だ」という考えがあるのです。神様は目に見えません。

 人間が今日の文化を持てたのは、言葉があるからです。「言葉がある」ということは、思考がある(物を考える)ということです。だから、神である言葉を大事にして日本人は、和歌をつくり、歌をつくり、俳句をつくったのです。「俳句は文学ではない」と言った人がいます。それは、「俳句ではすべてを表せない」というのです。俳句は5・7・5という短い文章の中に全ての情景を送り込むのです。季節・感情・「どうなっているのか」ということを、5・7・5で表しているのです。

 一つの例としては松尾芭蕉の「初雪や二の字二の字の下駄の跡」これですべてを表しているのです。「初雪や」と聞けば「冬だな。白い雪が降り積もっているのだな」とわかります。そして、誰かが高下駄を履いて歩くのです。すると二の字の下駄の跡ができます。それだけで、寒さと季節と優雅さと下駄の跡の面白さを感じるのです。まさに原爆にも匹敵します。

 そんなことは韓国人には絶対に出来ません。小説もできないのです。韓国に小説などありません。今は日本の真似をしてパクリで小説だと言っていますが、そんなものはありません。朝鮮に「文学」というもの自体がなかったのです。

 言葉を特に大事にしてきたのが日本人です。宮中行事の和歌というものは、非常に大事にされてきたのです。昔から天皇家の特別な行事にされてきました。和歌で全て表せるのです。

 その言葉の中に世界を閉じ込めてしまうのです。それと同時に「言葉は神である」から、言葉をちゃんと使って神に祈るならば、祈りは神に通じます。これが祝詞(のりと)です。祝詞に書かれている言葉は、神の言葉をお返しするのです。

 祝詞は「かしこみ・かしこみ申す~」(おそる・おそる神様に申し上げます)というところから始まります。全て言葉です。言葉を大事にしない民族ですから、祝詞など韓国にはありません。

アメリカにも祝詞などありません。アメリカにも言葉の文化はありません。何故ならば、アメリカ人は「言葉は道具だ」と思っているのです。道具なのですから言葉は正確です。

一つしか物がない場合は「a」とつけます。定冠詞の「the」をつけます。三人称は「s」をつけます。過去形・現在形・現在進行形があります。アメリカ人は機械のように言葉を使っているのです。「ing」をつけて現在進行形にするのです。

だから英語は易しいのです。全然難しくありません。特殊な言い回しがあるから、それを覚えるのに苦労するだけです。熟語は思考から出てきません。西洋人にとって言葉は道具です。日本人ならば雨も五月雨、春雨・秋雨・氷雨、・・・、いろいろあります。英語ではこれらの表現はありませんから翻訳できないのです。彼らは「今、雨が降っている」ということだけわかればよいのです。

その雨が「冷たいか、どうか」と言うことが大問題です。それによって傘をさしているのか、傘をさしていないのか? 傘をさしていなければ濡れてしまいます。このようなことが大事なのですが、英語には言葉の持つ深い意味などありません。

西洋人には「言葉の奥に神がいる」という考え方もありません。日本人はもっと進んでいて、「言葉そのものが神である」と思っているのです。だから言葉を大事にするのです。言葉をいい加減に使うと神罰を受けるのです。

約束を破るということは、神を裏切るということになるのです。神様の言葉を滅茶苦茶に使って朝鮮人は「契約は破るためにある」などと思っていますが、そのようなことをやっていると滅茶苦茶な世界になり、最後は自滅するのです。

人間は言葉によって向上して、言葉によって物事を成し、言葉によって人と自分が共有できるのです。言葉は大事です。説明ができない場合、武士ならば切腹したのです。問い詰められて説明ができない場合は、腹を斬ったのです。大事な思想です。

韓国人・朝鮮人には、言葉がありません。「言葉を破る」とも思っていません。これは前にも僕が指摘しましたが、朝鮮人は「約束を破る」と思っていないのです。朝鮮人には「約束する」という概念がありません。だから平気で約束を破るのです。

従軍慰安婦の問題でも「不可逆的合意をした」と言い、10億円取っておきながら、「あのお金は返す」と言うのです。ひどい民族です。ウソのつき放題です。言葉を大事にしないからウソと現実の区別がつきません。

韓国人は従軍慰安婦などなかったのに「あった」とウソをついているうちに、国民全体が「そうだ、従軍慰安婦はあったのだ。日本人はひどいことをやったのだ」と思い込んでしまったのです。韓国では無いものが「あった」ことになってしまうのです。

こんな民族は他にはいません。中国人も「言葉を大事にする」という風習はありません。日本人は言葉を大事にするので「日本人と約束したことは大丈夫だ」と言われるのです。

ところが日本国内でも最近は朝鮮人が増えてきて、政界・財界・芸能界・マスコミ界にバンバン朝鮮人が増えてくると、どうなるかというと言葉を大事にしないのです。平気でウソを言うのです。無かったことを「あった」と言い、「あった」ことを「知らなかった」ことにするのです。(②に続く)

 

 

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