日本の原爆 ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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 この狭い国土の日本に54基の原発を導入したのが、正力松太郎と中曽根康弘です。よくも、地震国日本にこんな原発を入れたのは驚きです。どこもかしこも一触即発という感じです。

 この2人は日本を滅ぼすために原子力発電所を導入したのかというと、そんなことはないだろうと思います。中曽根康弘さんはかつて海軍中尉の軍人です。正力松太郎も愛国者と言われた人です。戦後、正力松太郎はCIAよりコードネームPODAMをもらって、CIAのスパイをやっていたことも事実です。

 朝鮮系の根っからの売国奴とは筋が違います。やはり、日本の国のことを考えてやったのに違いありません。

 日本の国はなぜ戦争に負けたのかというと、原爆を持たなかったからです。これは北朝鮮もそうでが、日本も当然のこととして思っていたのです。原爆を持っていなかったから、やられたのです。広島・長崎の2発の原爆で20万人の人間が死んでしまっているのです。

 こんなものをやられたら、日本の都市全て全滅です。300発くらい原爆を撃ち込まれたら、日本民族がいなくなってしまいます。日本はやむにやまれず戦ったのですが、「ここで終戦する」ということが、天皇陛下のご聖断だったのです。

 最近は面白いことを言われています。ロシアのメドベージェフは、「日本は400発原爆を持っている」と言っています。中国も「日本は300~400発の原爆を持っているのではないか?」と言っているのです。

そして、習近平はアメリカに聞いたのです。「日本は原爆を造るのにどれくらいの期間がいるのでしょうか?」するとOne night overという返事が返ってきたのです。習近平はびっくりして「最低でも3ヶ月から6ヶ月かかるのではないですか?」と言ったのですが、One night overです。

 自衛隊の幹部に質問すると、「日本は原爆はもっていないが、One night overでできます」と言うのです。両方の情報をとってみると、外国は「日本は原爆を持っている」と思っています。事実、もっているのでしょう。

 もうすぐ撃てる状態で持っているわけではありませんが、組み立てればOne night overでできるということです。プルトニウムとロケットを組み合わせれば、One night overでできるのです。

 日本は原爆をもう持っています。公式にわかっていることは、7千発のプルトニウムを所有しています。中曽根康弘にしても、正力松太郎にしても「何としても原爆を所持しなければならない」と思っていたのです。

 原爆を所持するためには、プルトニウムが必要です。プルトニウムをつくるためには、原子炉が必要です。福島の原発事故もおかしいのです。事故直後は、「関東の電気が足らなくなるので、3分の1しか電気が使えない」と言っていたのですが、何も困っていません。ウソだったのです。

 何のためにやっていたのでしょう。これは宇野正美さんが言っていますが、「日本は原爆造っていた」のです。プルトニウムを造っていたのです。原子力発電所は電力をつくっていたのではなくて、プルトニウムをつくっていたのです。

 このプルトニウムは原爆製造のためのプルトニウムです。そのおかげで日本は7千発以上のプルトニウムをもう持ってしまったのです。ところがプルトニウムは古くなってくるのです。すると交換しなければいけません。

 アメリカの交換のためにプルトニウムを造っていたのですが、それを日本政府がイスラエルと組んでやっていたのです。その情報が漏れてしまったのです。

 現実的に言うと日本は原爆所有国です。日本はプルトニウムの生産、保管、起爆装置などを造ることができるのです。中国はそんな技術はもっていません。日本だけは全て自国で造れるのです。

 アメリカも日本の核技術に頼っている面もあります。それだけ深く食い込んでいるのです。常任理事国だけが核をもっていますが、核のない日本だけが全ての技術をもっています。これは事実です。

 そこで北朝鮮の問題が起きてきたのです。日本の原爆研究は理研の仁科博士の研究と、海軍の研究していた水爆研究と2つの種類があります。終戦間際になって、2つとも爆発させたというのです。日本の軍部はそれを発表しません。

 日本が研究していたことすら伏せたのです。そんな恐ろしい技術があったのだとわかったら大変だから、捨ててしまったのです。日本も終戦ギリギリに太平洋上で1発実験したのです。もう1発も実験したのです。それは事実です。日本はそこまでやって終戦です。

 終戦当時、日本は原爆の実験をやっていたのです。それが最近になって明らかになったのです。GHQの秘密文章が公開されて、日本は原爆を持っていたことがわかったのです。

 北朝鮮との関係はどうなっているのかというと、仁科博士は理研の研究者です。天皇に止められた原爆製造は北朝鮮でやっていたのです。すでに1939年の頃から、原爆の実験を北朝鮮に移していたのです。

 何故かというと、北朝鮮にはものすごく豊富なウランがあります。タングステンも豊富です。世界にはタングステンなどあまりありません。不思議なことに北朝鮮には希少鉱物が何でもあるのです。

 まず、陸軍は北朝鮮に原爆製造用のダムを5つ造ったのです。朝鮮戦争のときには、米軍が38度線を超えて何度も爆撃をしているのです。しかし、ダムは壊れなかったのです。鴨緑江のダムを含めた5つのダムで電力を確保して、北朝鮮にある豊富なタングステンとウラニウムを使って原爆製造をスタートさせたのです。

 原爆製造の初期に朝鮮半島は北と南に別れていません。ところがソ連はビックリして「日本が原爆を造っていた。この技術だけはもらってしまおう」と、猛烈にアタックをかけてきたのです。

それで38度線を引いて「これは俺の物」と日本の原爆技術をソ連にもっていってしまったのです。ウラン再生工場など全てソ連がもっていったのです。北朝鮮は一部ソ連になったのです。(続く)

 

■第二次世界大戦中の原子爆弾開発

 

第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と、大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。

 

■ニ号研究とF研究の接点

航空本部の鈴木辰三郎によれば、1945年初めころ海軍の技術関係者が航空本部にやってきて「海軍の方でも原子爆弾の研究をやることになった。一からやっていたのでは間に合わないし、むだだから仁科研でやっていた実験データを教えてほしい」と頼まれた。航空本部でもこの段階にきては陸軍だの海軍だの言っている場合ではない、ということで仁科研のデータを全部渡した、という。また、京大で六フッ化ウランの製造を受け持つことになった佐々木申二が理研の木越のところにやってきて、六フッ化ウランの製造を見学した。木越はそれで京大でも原爆の研究をしていることを初めて知ったという。さらに、荒勝教授が理研にやってきて(時期不明)仁科の案内で熱拡散分離筒を見学している。荒勝は、物資不足の戦時下によくこれだけのものを作った、と努力を評価している。

また陸軍側はウラン鉱石の入手に難儀しており、児玉誉士夫(児玉機関、上海市拠点)を通じてウランを入手していた日本海軍に「陸軍にもウラン鉱石を分けてくれ」と申し出た事もあったという。

 

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