気になる目の酷使

 

 昨日かその前日のことだったが、NHKの番組を何気なく観ていたときのことだ。それは北陸の町だったと思われるが、その町立小学校では活字の教科書を止めて、全てタブレットにしたと報じられていたことが報じられていた。

 

そこでは、毎日教科書を詰めた重たいランドセルの中身がタブレットに代わり、とても軽くなったと喜んでいる児童たちの姿があった。この様子を見て、またしても余計な老婆心が私の脳裏でうごめいていた。

 

 もう三十年以上というかなり前からのことになるだろうか。ゲーム機が流行り始め、その後スマートフォン(スマホ)が普及し、子供たちがそれに熱中するあまりに目を酷使過ぎ、仮性近視が増加していることが社会問題になっていた。

 

そしていま、至る所にIT機器が普及し、私たちはその便利さを享受してきたが、私などはその目覚ましい進化についていけないでいる。そして今、いよいよ人工知能(AIartificial intelligence)技術の発展が目覚ましく、人に代わって創造的な作業を行うようになり、それが新たな課題を社会に生じている。

 

 往々にして様々な新たな発展に社会の秩序を維持する機能が追い付いていないことが多いが、そのような懸念はさて置き、IT技術が人々の生活と切っても切れない時代になっていることは否定のしようがない。

 

そのために幼い頃からそれらの機器に慣れ親しみ、これらを駆使できる能力を培うことはこれからの社会で生きていく子どもたちにとって必要不可欠なことに違いない。

 

ただ、それ一辺倒に陥ると、人類が長年にわたって培ってきた様々な能力がおろそかにならないか、また私たちが生来持つ生物としての機能を阻害することに繋がらないかという懸念が生じる。

 

 私の拙い体験では特に目を酷使することになり、それが目の健康を損なうことになった。年甲斐もなくパソコンを頻繁に利用することになり、眼精疲労を生じて目に異常を生じてしまった。そのため、パソコンのモニターを大きなテレビ画面に替えて使用するようにしたことは既に述べたことがある。

 

成長期にある児童や生徒たちの学習が活字からタブレットに代わることで、学習における様々な能力の醸成に影響があるのではないかという指摘もある一方、授業が小さな画面で長時間行われるようになると、かねてから問題になっていた仮性近視など目の健康を害することが加速されないだろうかという危惧が生じる。

 

 技術的な発展は、それを止めることはできない。私たちはそのことによって生じる様々な課題と折り合いをつけながら、それを受容しなければならない。これからの社会では、それら新たに生じる課題とどう折り合いのつけていくのか、それは尽きることが無さそうだ。

黒百合?

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