自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法前文~憲法24条まで) | なか2656のブログ

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自民党は平成24年4月に、自民党憲法改正草案をウェブサイトで公表しています。このブログ記事では簡単ながら、この改正草案をみてみたいと思います。
(とくに人権の部分を中心にみてみたいと思います。)

・自民党憲法改正草案(PDF)

なお、私のこのブログ記事は、憲法前文から憲法24条の部分までです。
25条以降については、こちらをご参照ください。
・自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法25条~憲法102条まで)

1.前文第3段落
自民党憲法改正草案(以下、「草案」という)の前文第3段はつぎのようになっています。

「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」

前半の部分で国民に愛国心国防義務を義務化しています。また、後半では、「社会や家族の助け合い義務」を課しています。

そもそも近代的な憲法とは、中世の教会や王室、さまざまなギルドなどからの市民への支配を打破してゆく過程でできてきたものです。そのような精神はアメリカ独立戦争やフランス人権宣言にも受け継がれ、世界の現代の憲法もその流れのなかにあり、わが国の現在の憲法もそのなかのひとつです。つまり、「国家権力の専横を制限することにより国民の自由や人権を保障する」という考え方である立憲主義が近代的な意味の憲法の基本原則です。

つまり、近代的な、立憲的な意味での憲法においては、国民の人権や、個人の尊重が守るべき「目的」であり、国家はそのための「手段」です。

たとえば、現在のわが国の憲法の前文第1段の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

という一文は、わが国が国民主権であることを示すとともに、国家は国民の福利つまり自由や人権のための手段であること、それは人類普遍の原理であること、その原理に反する一切の憲法、法令は排除されるべきであるという立憲主義を宣言しています。

そのような立憲主義の観点からは、草案の前文第3段が、国家が憲法を用いて国民にさまざまな義務を課すのは憲法学の基礎がわかっていない杜撰な間違いです。同時に、この部分からして、自民党の、国民よりも国家のほうがずっと大事という価値観がよく表れています。

また、うえでも書いたとおり、立憲主義の観点から、憲法とは国家権力に歯止めをかける法であって、名宛人が国家である法であることから、その憲法において、国民に家族間の助け合い義務であるとか、社会での助け合い義務などを課すのも場違いです。

かりに憲法でなく民事法の何かの法律で規定するとしても、「家族間の助け合い義務」というのは、なかなか難しいのではないでしょうか。現行の憲法13条は幸福追求権を定め、その一環として自己決定権が導き出されます。自己決定権には、自分がどのような家族を持つか、どのようなライフスタイルを送るか、どのような人生をおくるか、などを国民が自分自身で決めるという自己決定権が当然に含まれます。

ただでさえ、現代の社会では価値観が多様化しており、結婚する人、しない人、結婚するけれど籍は入れない人、結婚しても子どもはもうけない人、等など、人や夫婦によって、価値観はまちまちです。

にもかかわらず、国家や自民党が、“国民は夫婦や社会で助け合いなさい”と憲法をもってして義務づけるのは自己決定権の観点からも、国民の価値観の問題からも余計なおせっかいもいいところですし、価値観の押しつけです。わが国は自由主義・民主主義の国家であり、かりにも自民党は自由で民主な党なのですから、このような国民のプライベートな問題は、政府が上から押し付けるのではなく、国民の間の自由な議論を経て、最終的には国民の内心にゆだねるべきです。

2.前文第4段落
草案第4段は、

「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」

としています。

環境保全、教育、科学技術の振興、経済活動の発展などはどれも大事なことではありますが、この第4段を一文として通して読むと、「国民は環境保全等などをして国を成長させる」という趣旨となります。これは、うえでもふれたような自民党流の、「国家繁栄のために国民が奉仕すべき」という価値観が現れています。

繰り返しになりますが、このような考え方は近現代の世界の憲法の基本的な考え方である立憲主義からは逆の発想です。近現代の社会においては、国民の人権や個人の尊重が目的であり、国家はそれらの実現のための手段です。

かりに自民党が現憲法96条や国民投票法に基づく憲法改正手続きを行なおうとしても、憲法の本質的な部分を変更するような憲法改正はできないとされています(「憲法改正の限界の問題」:憲法前文、11条、97条など)。

■参照
憲法改正の限界については、こちらをご参照ください。
・集団的自衛権/憲法解釈の変更と憲法改正の限界

立憲主義はまさに変更できない近現代の憲法の中枢部分といえるでしょう。もしこれが変更されるとすると、明治憲法のような、形式的法治主義のような建前としては存在するものの、存在意義のない憲法になってしまいます。

なお、これは感覚の問題かもしれませんが、前文にあえて「和を尊び」という文言を持ってくるセンスにも疑問を感じます。自民党のウェブサイトのQ&Aによると、「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の徳性である」と解説されています。

聖徳太子の十七条憲法は、近現代的な意味の憲法とは違い、聖徳太子から当時のお役人達に対して発せられた心得集、道徳律的なものです。そういうお役人向けの復古的なものを持ち出す必要があるのでしょうか。そういった意味でも、自民党のこの改正草案を作った方々の憲法への理解不足や勉強不足を感じます。

3.天皇・国旗・国家など
現行の憲法は1条でわが国の主権者は国民であるとしたうえで、天皇は国民の統合の「象徴」であるとしています。これに対して、草案1条は、主権者は国民であり、天皇は「象徴」であるとしつつ、天皇は「元首」であると規定しており、大変わかりにくい条文となっています。

元首とは、実質的な権限を持つ、対外的に国家を代表する機能(条約の締結など)を有する者をさすのが憲法学においては一般的な理解であり、そのような意味では主権者たる国民から選ばれた国会議員から負託を受けた内閣総理大臣こそがわが国の元首です。

また、草案3条1項はわが国の国旗を日章旗と定め、国歌を君が代と定めてたうえで、同2項は国民に日章旗と君が代を尊重する義務を課しています。さらに草案4条は元号について定めています。

現在もすでに国旗、国歌や元号についてはすでに個別の法律(「国旗及び国家に関する法律」「元号法」)が立法化されており、それらで運用がなされています。ことさら国の最高法規たる憲法で仰々しく国旗や国歌などを定める必要があるのでしょうか。うえで記したとおり、近現代の憲法は立憲主義の観点から国家権力を縛り国民の人権を保障することを目的とするのであり、つまり、憲法の名宛人は国家権力です。草案3条2項のように、国民に対して国旗や国歌の尊重義務を課すのは、義務の方向性が逆であるといえます。

なおこの点、校長から入学式での「君が代」のピアノ伴奏を命じられた教員が思想・良心の自由(憲法19条)等の侵害であると争った訴訟は、結局、思想等の自由の侵害にあたらないとの判決が出されました(君が代ピアノ伴奏拒否事件・最高裁平成19年2月27年)。この点、首都大の木村草太准教授は、この問題を「パワハラ」の観点から論じる可能性を指摘なさっており、注目されます(木村草太『憲法の創造力』30頁)。

また、日本ではあまりなじみがないテーマではありますが、アメリカなどでは、いわゆる「象徴的言論」(=「行動を伴う言論・speech plus」)と呼ばれる表現行為の類型が憲法上の論点となっています。これはたとえば、ベトナム戦争への反対の意味をこめて街頭でアメリカの国旗に火をつけるなどの、行動をともなった表現行為です。

現代社会で他者への暴力などの行為が許されないのは当然ではありますが、しかしもし草案3条2項が新たな憲法として現実のものとなると、これらの象徴的言論という政治的表現は一律に憲法違反ということになり、1945年以来、表現の自由をできるだけ保障しようとしてきたわが国の法律、政治、文化のあり方から大きな違和感があると思われます。

さらに、草案6条は、天皇の国事行為等について定めています。憲法改正、法律、政令及び条約の公布や、衆議院を解散などの「国事行為」については、内閣の「進言」と「承認」が必要であり、その結果については内閣が責任を負うとするのは現行の憲法と同じです(現行の「助言」を「進言」という言葉に変えたのはやや違和感がありますが)。

ところで、現行の憲法下において、天皇の政治的行為でもなく、国事行為でもない「公的行為」をどのように考えたらよいのかが議論されてきました。これは例えば国会の開会式で天皇が述べる「おことば」などがこれにあたります。

この点、憲法学の学説は、天皇や、天皇の威光を政治権力が濫用しないように、うえの国事行為に準じて、内閣の助言と承認が必要であり、その責任は内閣が負うと解してきました。

しかし、草案6条5項は、「天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」と規定するのみで、この公的な行為には内閣の進言(助言)と承認は不要としてます。

さらに、現行の憲法4条1項は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定し、天皇が政治的行為をしないよう規定しているのですが、草案はこの部分をなくしています。

政府・与党の政治権力側が、天皇の威光をかさにかけて、天皇の公的行為や政治的行為を利用して、変なことを企てないかと心配になります。

4.憲法9条
憲法9条の部分は第二章に置かれており、現行の憲法ではその表題は「戦争の放棄」となっています。しかし、自民党の草案では、「安全保障」となっています。この部分を改正したい自民党の強い思いを感じます。

現行の憲法9条2項が、陸海空の戦力を保持しないこと、国の交戦権を認めないことを定めてていたところを、草案は180度転換して、「自衛権の発動を妨げるものではない」とします。

そして、つぎの条文の、草案9条の2では、「国防軍」を保持することを定めています。また、草案9条の2第5項はいわゆる軍法裁判所の復活を規定します。さらに、同4条は、「国防軍の機密の保持に関する事項は法律で定める」としており、特定秘密保護法よりさらに強烈な法律が立法化されることも予想されます。

そして、草案9条の3は、国民に領土保全義務を課します。これは、「領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」とするものです。わが国が軍事が第一で、民間企業や市民が軍に協力を強いられる戦前のような軍国主義に戻るのは必至でしょうし、また、この領土保全義務は解釈の仕方によっては、「徴兵制」なども導き出すことが可能でしょう。

■参照
憲法9条2項や集団的自衛権の問題については、こちらをご参照ください。
・集団的自衛権/憲法解釈の変更と憲法改正の限界

5.国民の権利及び義務
第三章 国民の権利及び義務


第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

第13条(人としての尊重等)
 全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。


第三章の「国民の権利及び義務」の部分は、現行憲法と草案とでかなりの違いがあります。

まず、草案13条は、現行憲法が「個人」としているところを、「人」としました。

この背景にはつぎのような考え方があります。自民党の憲法改正草案Q&AのQ13は、「国民の権利義務」について、「現行憲法の規定のなかには、西欧の天賦人権説に基づいて規定されているものが散見されることから、こうした規定は、改める必要があると考えました。」と解説しています。

この点に関して、自民党憲法改正草案の起草委員のひとりであった、片山さつき参議院議員ツイッターでのつぎのような内容の投稿が以前話題となりました。

「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」


この自民党のQ&Aに登場する天賦人権説とは、名前だけ聞くとやや仰々しいですが、しかしその内容は、「すべての人間は、生まれながらにして自由に、平等に幸福を求める権利がある」という考え方です。

この片山氏の発言と天賦人権説との関係について、慶應義塾大学法学部教授で憲法学者の小林節先生は、つぎのように説明なさっておられます。

「人間はだれもが生まれながらに人権を持っている」し、「人として生まれただけで尊いし、幸福に生きる権利がある。そして幸福とは、自分が自分であることを否定されないこと、つまり個性や個人の尊重が憲法の前提となる価値観」です。

「そのうえで、人間はひとりでは生きていけないものだから、国家というサービス機関を道具として皆で作ったのです。であるとすれば、人間と国家が対立したときに、国家が人間の人格的生存を侵すようなことがあれば、これは道具である国家が誤動作しているということなのだから、人間は革命を起こさなくてはならない。これがアメリカ独立戦争、独立宣言の精神です。」

「たしかに天賦人権説というのは西洋ではじまったものではあるけれど、個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているのだという前提は、誰にも否定できない普遍性を持っている。だとすれば、天賦人権説は、個人の存在理由や国家の存在理由にかなった説明方法だと思われます。」

「国家が先に来て、国民が後に来るとなると、国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。だけど国家なんていうのは肉体を持たない架空の約束ですから、結局は国家権力の名で行動しうる自然人、政治家を含む公務員が、自分の価値観や判断を「国家」の名で押しつけることになる。」

「だから、この第三章を貫いている考え方は、歴史の教訓に逆行する、おバカな発想ですよ。それから、個人の個をとって「人」とすることが意図的に行なわれたとのだとしたら、恐ろしい話です。個性こそが尊重されるべきものだというのが人権論の本質なのだから。」(小林節「自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす」106‐108頁より)。

慶應義塾大学法学部教授で「改憲派」の憲法学者として知られる小林節先生が、端的に、この自民党のこの第三章の部分の改憲草案に関して、

「国家なんていうのは肉体を持たない架空の約束ですから、結局は国家権力の名で行動しうる自然人、政治家を含む公務員が、自分の価値観や判断を「国家」の名で押しつけることになる。」

とのコメントを述べておられますが、これはまさに正論であると思います。
うえであげた、片山さつき氏のツイッターの投稿ですが、これはかつてのアメリカのジョン・F・ケネディ大統領の大統領就任演説を連想させる、一見、耳障りのよい、かっこいい表現です。

しかし、大統領就任演説で、「アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、何が出来るかを問うてほしい」と演説したケネディ大統領が、今もなおアメリカなどの各国で愛される大統領であり、また中道左派といわれる民主党の大統領でありながら、1962年のキューバ危機においては核戦争勃発の瀬戸際まで世界を追い込み、また、1961年からは、ベトナム戦争において、南ベトナム(ベトナム共和国)に「軍事顧問団」と海兵隊を派兵し、枯葉剤、クラスター爆弾、ナパーム弾などによる攻撃を行った、極めて好戦的な大統領であったことを今一度思い起こす必要があります。

また、片山さつき氏は東大の法学部を出て、元大蔵官僚を経て自民党の政治家となった人物です。今現在の政府・与党の政治や行政を見るに、そのようなエリート達が、本当に国民や庶民のための政治をしてくれるのでしょうか。

そういったわが国の政治家やキャリア官僚といったごくごく一部のエリート達が国民に対して、「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるかを考えよ」と述べたとしても、それは一見、「国を維持するため」と目的を表示しつつ、実はその目的は「自民党・公明党の国会議員や官僚の利益のため」ではないでしょうか。

それは戦前の「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」といった、国家が国民に対して奴隷のような労働力や、最終的には命すら要求する状況の再来にしかならないと思います。

現に、自公政権の安倍政権は「構造改革」と称して、労働分野、社会保障分野、医療分野などにおいて、まさに国民、庶民を苦しめるさまざまな制度の改悪を実施中であり、福島原発の被災者の方々が暮らしに困窮しているにもかかわらず原発の再稼働も行なおうとしており、沖縄では地元の民意を無視して辺野古の基地建設を強行しようとしています。

まさに安倍総理や自民党、公明党の政治家や中央官庁の官僚たちが「国家」の美名を名乗って自分達の価値観、判断や私利私欲を国民にごり押ししている状況です。

このように、国家権力というものが人間によって濫用されやすいものであることを考えると、国民が公共の一翼を担うべきだという考え方を憲法のバックボーンにすえることには論理の飛躍があるともいえます(弁護士・伊藤真氏「自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす」137頁)。

そのような意味で、草案13条が現行憲法が「個人」としているところを「人」としている点や、その背景の考え方として、天賦人権説の否定を行なっている点について、私は反対します。

また、草案12条の「自由及び権利には責任及び義務が伴う」というのも何なのかなと思います。たとえばある人が別の人にお金を貸すと、その人は債権者となり、貸金債権を有することになりますが、べつに何らかの義務を有するわけではありません。そういった意味でも、このあたりの草案の条文は、自民党の議員の先生方の古臭くてあまり正しくもない価値観の押しつけがましさを感じます。

さらに、草案12条、13条、21条などは、現行憲法が「公共の福祉」としてきたところを「公益及び公の秩序」としました。

現在の「公共の福祉」は人権相互の対立の場面だけでなく、たとえば公正な選挙の実現なども含めて広く判例は解釈しています。

それをあえて自民党の草案が「公益及び公の秩序」と幅広な表現をしてきたのは、つまり、国民の人権がつねに公益と公序に反しない限りでしか認めないとするためであろうと思われます。

これは、戦前の明治憲法における「法律の留保」(「法律の範囲内ニ於テ」)のついた「臣民の人権保障」と同じであり、つねに人権のうえに公益・公序があることになり、人権はつねに公益や公序に反しない範囲でしか認められないという狭いものになってしまいます。

6.選挙権・参政権
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等)
3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。

第94条(地方自治体の議会及び公務員の直接選挙)
2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。


参政権に関して、草案は15条で一般論として、また、94条で地方自治について、日本国籍という要件を新たに加重しています。もちろん日本は日本人の国家ですから、主権は日本人にあるべきであり、外国からの内政干渉がないことが望ましいのはいうまでもありません。

しかし、現在も日本には多くの定住外国人の人々が住んでおり、私自身は反対ですが、政府・与党が推進しているTPP交渉が成功すれば、今後、より一層多くの外国人が日本にやってくることになるでしょう。また、安倍政権は、わが国の女性の社会進出を後押しするために、家事を代行させるためにアジアの安い労働力を輸入する方針であるそうです。あるいは、少子高齢社会が進行する日本社会の現状を改善するため、移民を受け入れようという議論もあるようです。

また、参政権とは国会議員や地方議員になることから、公務員や国立大学の大学教員になることなども含む幅広な問題です。わが国では、国立大学の規定に国籍条項があったため、1980年代ごろまで、どんなに優秀な方でも外国人は日本の国立大学の教授になることができなかったそうです。これはわが国の学問や文化にとって不幸なことであると思います。

さらに、定住外国人の地方参政権が争われた著名な判例である、最高裁平成7年2月28日判決は、原告である定住外国人の主張自体は退けたものの、“地方自治体と密接な関係を有する定住外国人に地方選挙権を付与することは憲法上禁止されているものではなく、それはもっぱら国の立法政策にかかわる事柄である”との判断を示しました。

このようなさまざまな点から、自民党の草案が参政権に国籍条項をつけたことは、時代の流れに逆行しているように思われます。

7.身体の拘束及び苦役からの自由
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。

草案18条は、現行憲法18条の「奴隷的拘束」という文言をなくしました。そのうえで、「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」としています。

草案の前文は国民に愛国心を義務づけ、草案3条は国民に国旗・国家の尊重義務を課しています。そのような愛国心や国旗・国家の尊重義務の拘束はくぐりぬけさせるための改正なのだろうかと思われます。そのような意味では今後、法律の立法化により、国民に対して、自民党・公明党に対して忠誠を誓う義務を課すような法律ができるかもしれません。もしできたとしてもそれは少なくとも草案18条違反にはなりません。

8.個人情報の不当取得の禁止等
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

憲法の草案にこんな条文が置かれていることにも驚いてしまいます。仰々しいというか、「ハエを追うのに鉈を振り回す」という言い回しがありますが、こういうときに使うのでしょうか。

もちろん、プライバシーは重要であり、近年、コンピュータが発達した現代社会では電子データ化された個人情報が漏洩してしまうと、その被害は紙ベースのものの比較にならないほど甚大であることを考えると、個人情報保護は厳格になされるべきです。

現在、経済の起爆剤になるとして、政府・財界主導でビッグデータの利活用に向けた個人情報保護法の改正のための動きが活発化しています。とはいえ、最近はJR東日本のSuicaやNTTドコモの個人情報の第三者提供の問題などが大きな社会問題となりました。法律の改正にあたっては、産業界のニーズとともに市民・利用者の納得との調和が必要でしょう。

そのようななか、草案19条の2に、いきなり、「個人情報の不当取得の禁止等」という条文があるのは唐突感があります。やはりこれは、この草案を作った自民党の先生方は、憲法や法律などの法律学になれていない素人の方々ばかりだったのだなと思わざるを得ません。

もし最近大規模な個人情報漏洩で大きな社会問題となったベネッセなどが、かりに草案施行後に個人情報漏洩の事件を起こしたら、ベネッセは憲法違反となるのでしょうか?

(また、「何人も個人情報を不正に取得してはならない」という条文が憲法に置かれると、それは、政府・与党に対する報道の自由・取材の自由などの国民の「知る権利」・表現の自由を侵害する危険性があります(憲法21条)。これはつまり、わが国の民主主義を危うくするおそれがあります。)

この個人情報保護の条文もそうですが、とにかく自民党の国会議員の先生方の、とにかく俺達はこんなことがしたいんだ、というてんこ盛りの古臭くてカビ臭い思いが満載であることは良く分かります。しかし、それは憲法でやるべきことなのか、各業界を監督する行政法でやるべきなのか、あるいは夫婦の助け合いなどの民法でやるべきなのかといった交通整理がまったくできていません。

大々的に政党の案として出す以上は、仲間内の同好会的に内輪でわいわいやっているだけでなく、いろいろな専門家も交えて意見を交換してやればよいと思うのですが、どうも自民党の政治家の先生方は、専門家という単語を聞くだけでアレルギー反応を示すようです。

(あるいは、最近の文科省のG型L型大学改革構想や、高校時代における学業ではなく生徒会活動やボランティア活動等を重視する大学入試改革などをみると、政府・与党は、国民全員を反知性的にすることに全力をあげる所存なのかもしれません。)

9.信教の自由
第20条(信教の自由)

1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。


わが国の現行憲法20条は89条と相まって、厳格な政教分離原則をとっています。そしてそれをもとに、判例も津地鎮祭判決事件など、判例が集積されてきていました。

ところが、草案20条1項は、現行の宗教団体が「政治上の権力を行使してはならない」という部分を削除しました。また、現行憲法20条3項は、国の宗教活動の禁止を定めていますが、草案20条3項は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」としており、現行憲法の厳格な政教分離から緩やかな政教分離を目指しているといえます。

自民党としては、連立を組む公明党・創価学会に大きな貸しを作るつもりでしょう。公明党と創価学会はこれまで以上に堂々と宗教部門と政治部門が合体して活動できるでしょう。また、自民党の国会議員としても自分達が公人として堂々と靖国神社にいけるということになるでしょう。

一方、もし戦前のように、神道が国家神道のようになるようなことがあれば、再び宗教的な少数者が宗教的・政治的に弾圧される戦前のような愚行が起きることになるでしょう。また、さらに政府・与党が戦前のように、国家神道を復活させ、それを求心力にして軍国主義への道を歩むのなら、再び第一次大戦、第二次大戦のような惨禍が起きることになります。

10.表現の自由・結社の自由
第21条(表現の自由)

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。


草案21条2項は、国民の表現の自由、結社の自由に、「公益及び公の秩序を害する活動は認められない」という制限を課しています。このような表現の自由への規制によって、政治権力のさじ加減で、表現の自由が規制されるおそれがあります。たとえば、脱原発、反戦、基地建設反対などのデモ・集会などが政府の判断によりこの21条2項により禁止されてしまう危険があります。

現実に、2014年9月にヘイトスピーチ規制立法に関する議論の機運が高まった途端に、自民党の高市政調会長が、「ヘイトスピーチとともに国会前のデモも禁止したい」と表明したのは記憶にあたらしいものがあります。このように表現の自由に対する規制は常に権力者による濫用の危険をはらんでいます。

また、現在、多くの自治体で、平和を考える市民団体や芸術団体などに対して、公民館などが、「政治的に中立でないものに公民館を貸すことはできない」と場所の提供の拒否をするケースが増えているようです。もし草案21条2項が憲法改正により正式な憲法となったら、この21条2項がこの拒否の根拠条文となるでしょう。

京都のヘイトスピーチ訴訟と、ヘイトスピーチ規制立法についてはこちらをご参照ください。
・京都朝鮮学園事件判決とヘイトスピーチ規制立法について

11.家族、婚姻等に関する基本原則
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)

1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。


これもものすごくおせっかいというか、自民党のお年召した先生方のカビ臭い価値観のゴリ押しです。

結婚というものは、両当事者が合意に基づいて結婚し、それがうまくいかなくなれば離婚します。民法の家族法の部分にはそれぞれの規定が準備されています。

それなのに、憲法という最高法規で「家族は尊重しあわなければならない」とか「助け合わなければならない」と規定されていたとしたら、不倫された相手が「相手の行為は憲法違反だ」と訴えることになります。(小林節「自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす」110頁。)

これも、いかにも仰々しいというか、「ハエを追うのに鉈を振り回す」という感じです。あるいは、「個人」よりも「家族」に価値を求めようとする、自民党の古臭い戦前回帰的な団体主義・全体主義的な臭いを感じます。

また、草案24条が創設する「家族助け合い義務」について、樋口陽一東大名誉教授はつぎのように述べています。

草案24条の家族助け合い義務は、「「福祉」は国民が租税で負担するのではなく、家族や社会が引き受けるべきだ、という(自民党の)基本的な考え方の反映であ(り)、「現行22条の「公共の福祉」をも削ることによって、いわゆる新自由主義政策が規制の緩和・撤廃と福祉の切り捨てを推進することの憲法上の障害を除くのに役立つだろう。」(樋口陽一『いま、「憲法改正」をどう考えるか』104頁)

つまり、もし草案どおり憲法改正がなされたら、憲法25条以下に根拠を置くさまざまな社会権・社会保障は骨抜きとなり、それらは家族の自己責任ということになります。そして、政府はこれまでは社会保障ためとして受領してきた税金をこれまで以上に新自由主義路線の費目に使うことになります。

■文献
・小林節・伊藤真「自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす」
・伊藤真「赤ペンチェック自民党憲法改正草案」
・芦部信喜「憲法 第五版」 
・野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法Ⅰ・Ⅱ[第4版]』
・晴山一穂「政治主導論と政官関係の改革構想」『改憲を問う』154頁
・伊藤真『憲法問題』
・木村草太『憲法の創造力』30頁
・幣原喜重郎『外交五十年』
・ダグラス・マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録』

自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!



増補版 赤ペンチェック 自民党憲法改正草案



「憲法改正」の真実 (集英社新書)



憲法 第六版



憲法1 第5版



憲法問題 (PHP新書)



白熱講義! 集団的自衛権 (ベスト新書)



いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味





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