面授(タッカー・カールソンのプーチンへのインタビュー)(#78)
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タッカー・カールソンのプーチンへのインタビュー
<さて、カールソンとプーチンとの実際のやりとりであるが、正確にその内容を伝えることはできない。余りにも長いのと、ただ一度しか聞いていないためである。正確な内容を知りたい人は、自分で探してもらいたい。
これから木庵のバイアスのかかった感想のようなものを書く。と書いたが、NHK国際ニュースナビで、2022年5月29日にプーチンが行った大統領演説の全文が載っているを発見した。これを紹介する。この演説は、プーチンがカールソンに語ったもの以上に詳しい。しかし、カールソンに語ったウクライナの歴史の話ではジンギスカン時代にまで遡っているが、テレビ演説ではそこまで言及していない。木庵>

【全文】2月21日 プーチン大統領 テレビ演説
親愛なるロシア国民の皆様、親愛なる友人の皆様。
この演説のテーマは、ウクライナの情勢であり、それがなぜ私たちにとって、ロシアにとって重要なのかということだ。
もちろん、これはウクライナの同胞たちに呼びかけるものでもある。
じっくりと、詳しく話す必要がある。
問題は非常に深刻だ。
ドンバスの情勢は、再び、危機的で深刻になっている。
そしてきょう、あなたがたに直接呼びかけるのは、現状を評価するためだけでなく、どのような決定が下されているのか、この方向性で今後どのような展開になり得るかについて、皆さんにお知らせするためでもある。

改めて強調しておく。
ウクライナは、私たちにとって単なる隣国ではない。
それは、私たちの独自の歴史、文化、精神世界から切り離すことのできない一部分だ。
同僚や友人、かつての戦友だけでなく、親戚、血縁や家族の絆でつながっている人々など、私たちの同志であり、親族でもあるのだ。
歴史的なロシアの土地の南西部に住む人々は、ずっと昔から、自分たちのことをロシア人であり正教徒であると称してきた。
17世紀にこれらの土地の一部がロシア国家に再統合された前も後も、そうだった。
このことは、基本的に皆が知っており、周知の事実であると私たちは思っている。
しかし、現在起きていることを理解し、ロシアの行動の動機と私たちが追求する目標について説明するためには、少なくともこの問題の歴史にひと言触れておく必要がある。
まず、現代のウクライナはすべてロシアによって、正確にはボルシェビキ、共産主義のロシアによって作られたということから始めたい。
このプロセスは、1917年の革命のほぼ直後に始まった。
ちなみにレーニンとその仲間たちは、ロシア自身にとってかなり手荒なやり方で、すなわち、ロシアの歴史的領土の一部を分離、切断することによってそれを行った。
その土地に住んでいた何百万人もの人々の意見など、当然、誰も何も聞くことはしなかった。
その後、大祖国戦争の前後で、スターリンはすでに、それまでポーランド、ルーマニア、ハンガリーの領土だったいくつかの土地をソビエト連邦に併合し、ウクライナに引き渡した。
その際、スターリンは、一種の補償として、もともとドイツ領だった土地の一部をポーランドに割譲した。
1954年にはフルシチョフがなぜかロシアからクリミアを取り上げ、ウクライナに与えた。
実のところ、このようにしてソビエトのウクライナ領は形成されたのだ。
しかし、ここで特に注目したいのは、ソビエト連邦が誕生して間もない時期である。
それは私たちにとって極めて重要であると考える。
いわば、遠回りする必要があるのだ。

1917年の10月革命とそれに続く内戦の後、ボルシェビキが新しい国造りに着手したが、その際、彼らの間にかなりの意見の相違があったことを思い出してほしい。
1922年にロシア共産党中央委員会書記長と民族問題人民委員を兼任したスターリンは、自治の原則に基づく国づくりを提案した。
つまり、将来の行政・領土単位である共和国に対し、統一国家に編入する際に広範な権限を付与するというものだった。
レーニンはこの計画を批判し、彼が当時「無党派層」と呼んでいた民族主義者らに譲歩することを提案した。
まさにこの、本質的に連邦制の国家体制を作るべきというレーニンの構想と、分離までをも含む民族自決の権利についてのスローガンが、ソビエト国家の基盤となった。
まず1922年にソビエト連邦樹立宣言に明記され、その後、レーニンの死後、1924年のソビエト連邦憲法にも明記された。

ここですぐに多くの疑問が生じる。
そのうちの1つ目、実際最も重要なものは、なぜ旧帝国の周辺地域で絶え間なく高まっていく民族主義者たちの野心を満たしてやる必要があったのか、ということである。
しばしば恣意的に形成された新たな行政単位である連邦共和国に、広大で、しばしば何の関係もない領土を譲渡する必要があったのか。

繰り返すが、歴史的なロシアの人口も一緒に引き渡したのだ。
しかも、事実上、これらの行政単位には国民国家の地位と形態が与えられていた。
改めて考えてみると、なぜそのような、最も熱烈な民族主義者たちでさえそれまで夢に見ることもしなかったような気前のよい贈り物をし、しかも統一国家から離脱する権利を共和国に無条件で与える必要があったのだろうか。

一見、これは全く理解不能な、狂気の沙汰のようだ。
しかしそれは一見したところだけの話で、説明はつくのだ。
革命後、ボルシェビキの重要課題は、どんな代償を払ってでも権力に踏みとどまるということだった。
まさにどんな代償を払ってでも。
そのために彼らはなんでもやった。
カイザーのドイツとその同盟国が軍事的にも経済的にも極めて苦しい状況にあり、第一次世界大戦の結果はほぼ決まっていた時期に、ブレスト=リトフスク条約の屈辱的な条件を受け入れたし、国内の民族主義者たちからのあらゆる要求、要望に応えようともしていた。

ロシアの国家と国民の歴史的運命の観点から見れば、国家形成におけるレーニンの原則は、単なる過ちだっただけでなく、俗に言う、過ちよりもはるかに悪かった、ということだ。
1991年にソビエト連邦が崩壊したあと、そのことが完全に明らかになった。

もちろん、過去の出来事を変えることはできない。
しかし、私たちは少なくとも、それについて率直に誠実に、何の条件もつけず、政治色を加えることなく語らなくてはならない。
私から付け加えることができるのは、どんな政治的な考察も、ある時期に、いかにそれが華々しく有利に見えたとしても、それを国家体制の基本的原則の基礎にすることは、どんな状況においてもあってはならないし、ありえない、ということだけだ。

今、誰かを責めようとしているわけではない。
内戦後、そしてその前夜の国内の状況は、信じ難いほどに複雑で危機的だった。きょう言いたいのは、何もかもがまさにそのような状況だったということだけだ。
それは歴史的事実だ。
実際、すでに述べたように、ボルシェビキの政策によって生じたのがソビエトのウクライナであり、現在も「ウラジーミル・イリイチ・レーニンのウクライナ」と呼ばれるにふさわしい。
彼はその作者であり設計者である。
このことは、ウクライナに文字どおり押し込められたドンバスに対するレーニンの厳しい指令などの古文書によって、完全に裏付けられている。

それなのに今、「恩を感じている子孫たち」はウクライナにあるレーニン像を取り壊した。

彼らはこれを非共産化と呼んでいる。
あなた方は、非共産化を望んでいるのか。

まあ、それもいいだろう。
しかし、よく言われるように、中途半端で終わってはならない。
ウクライナにとって真の非共産化が何を意味するのか、あなた方に見せる準備はできている。

この問題の歴史に話を戻すと、繰り返しになるが、1922年、旧ロシア帝国の空間にソビエト連邦が誕生した。
しかしすぐに現実は、これだけ広大で複雑な領土を維持することも、形のない事実上連邦制の原則に基づいて領土を統治することも、とにかく不可能であるということを示した。
現実からも歴史的伝統からも全くかけ離れていたのだ。

赤色テロとスターリンの独裁への急速な移行、共産主義イデオロギーの支配と共産党による権力の独占、国有化と国家計画経済。
これらすべてが、形式的には提唱されたものの機能しない国家の原則を、単なる宣言に変えてしまったのは当然だ。

現実では、連邦共和国には何の主権も生まれることなく、存在すらしなかった。実際には、極めて中央集権的な、完全なる単一国家が誕生したのだ。

スターリンは、事実、レーニンではなく、自分自身の国家機構についての考えを完全に実践で実現した。
しかし、基本的な文書や憲法に相応の修正を加えることはしなかった。
宣言されたソビエト連邦樹立のレーニンの原則を正式に改訂することもしなかった。

確かに、おそらく、そのような必要はなかったのだろう。
全体主義体制のもとですべてが機能し、外見的には美しく、魅力的で、超民主主義的にさえ見えた。
それにしても残念だ。
革命に触発された忌まわしいユートピア的な空想が、これはまともな国にとって極めて破滅的なものだが、それが、わが国全体の基本的で正式な法的基礎から速やかに一掃されなかったことは、非常に残念だ。

以前からわが国ではよくあったことだが、誰も将来のことを考えなかった。
共産党の指導者たちは、強固な統治体制を形成することができた、自分たちの政策によって民族問題も完全に解決することができたと確信していたようだ。

しかし、改ざん、概念のすり替え、世論の操作、欺まんなどは高くつく。
民族主義者の野心のバチルスが消えてなくなったわけではなかったし、民族主義の感染に対する国家の免疫力を弱めるために埋められていた地雷は、まさに爆発しようとしていた。

繰り返すが、その地雷とは、ソビエト連邦から分離独立する権利だった。
1980年代半ば、社会経済問題が深刻化していき、計画経済が明らかに危機にひんしていた中、民族問題はますます先鋭化していった。

問題の本質は国民の期待や満たされない願望というよりもむしろ、地方のエリートたちの増大する欲求であった。
しかしソビエト共産党の指導部は、状況を深く分析し、まず経済において適切な処置を講じ、また、段階的に熟慮を重ねて計画的に政治体制や国家機構を変革していく代わりに、民族自決のレーニンの原則を復活させるという露骨な言い回しに終始した。
さらに、共産党内で権力闘争が展開される中、対立する各派が支持基盤を拡大しようと、民族主義的な機運を軽率に刺激し助長してそれを利用するようになり、潜在的な支持者らが望むものはなんでも約束するようになった。

民主主義や、市場経済か計画経済を基礎とした輝かしい未来について、うわべだけの大衆迎合的なむだ話が行われる中、その一方で人々が現実の貧困と全体的なモノ不足にあえぐ中、権力者の誰一人として、国にとって悲劇的な結末は避けられないであろうと考えた者はいなかった。

その後、自分たちの党内で育まれた民族主義エリートたちの野心を満足させるという、ソビエト連邦の黎明期に確立された道を行くこととなった。
彼らは、ソビエト共産党の手中には(幸いなことだが)国家テロやスターリンのような独裁者といった、権力および国そのものを維持するための手段がもう無いということを忘れていた。

党の悪名高い指導的役割さえ、まるで朝霧のように跡形もなく目の前から消え去ろうとしていたのに。

そして1989年9月のソビエト共産党中央委員会の総会で、運命的な文書が採択された。
それは、現状における党の民族政策と呼ばれる、ソビエト共産党の綱領だった。
その内容は、引用すると次のようなものだった。
「連邦共和国は、主権的な社会主義国家としての地位に相応するすべての権利を有する」
もう1つはこうだ。
「連邦共和国の最高代表機関は、その領土において、連邦政府の決議や命令を不服とし、その効力を停止することができる」

そして最後にこれだ。
「各連邦共和国は、独自の市民権を有し、その市民権をすべての住民に適用させることができる」

このような考え方や決定が何をもたらすかは、明らかだったのではないだろうか。

今ここは、国の法律や憲法の問題に踏み込んだり、市民権の概念自体を定義したりする時間でも場所でもない。
それにしてもやはり疑問が生じる。
ただでさえ厳しい状況の中で、なぜこれほどまでに国を揺るがす必要があったのだろうか。

しかし事実は事実だ。
ソビエト連邦が崩壊する2年前の時点で、その運命は実質決まっていた。

今、過激派や民族主義者が、どこよりもまずウクライナにいるそうした者たちが、独立を獲得したのは自分たちの手柄だと言っている。

お分かりのように、それは全く違う。
私たちの統一国家が崩壊したのは、ボルシェビキの指導者たち、ソビエト共産党の指導部が、国づくりや経済政策、民族政策において、その時々で歴史的・戦略的な過ちを犯してきたからだ。

ソビエト連邦という歴史的なロシアの崩壊は、彼らの責任である。
あらゆるロシアの不正、欺まん、あからさまな略奪にもかかわらず、わが国民は、まさに国民は、ソビエト連邦崩壊後に現れた新しい地政学的現実を受け入れ、新たな独立国家を認めた。

認めただけではない。
ロシア自身、当時、非常に困難な状況にありながらも、ウクライナを含むCIS諸国のパートナーたちを支援した。
こうした国々からは、独立を宣言した直後から、数多くの物資支援の依頼が舞い込んできた。
そしてわが国は、ウクライナの尊厳と主権を尊重しながら、そうした支援を実施した。

ロシアがウクライナに提供したエネルギー資源の価格、優遇的な融資、経済・貿易における特恵的な待遇などを算出した専門家らの試算によると、1991年から2013年までにウクライナの国庫が受けた利益の総額は、約2500億ドルだった。

しかしそれだけではない。
1991年末には、ソビエト連邦の外国や国際基金に対する債務は、約1000億ドルに達していた。
当初、これらの債務は、すべての旧ソビエト諸国が連帯して、それぞれの経済力に応じて返済することになっていた。

しかし、ロシアはソビエトの債務返済をすべて引き受け、完済した。
2017年にこのプロセスを完了した。

その代わりに、新たに独立した国々は、ソビエトの対外資産を放棄することになった。
ウクライナとは、そのような合意が1994年12月に成立した。
しかしキエフはこの合意を批准せず、あとになって履行することを拒否し、ダイヤモンド基金や金準備金、その他の旧ソビエトの対外資産などを要求した。

よく知られたこれらの問題にもかかわらず、ロシアは常にウクライナとオープンに誠実に、そして繰り返すが、その国益を尊重しながら協力してきた。
私たちの関係は幅広い分野において発展していった。

このようにして2011年には、二国間の貿易高は、500億ドルを超えた。
言っておくが、2019年のウクライナのEU諸国全体との貿易高は、つまりパンデミック以前であっても、この指標には及ばなかった。

それと同時に、ウクライナ政権が、ロシアとの関係においてあらゆる権利と利点を持ちながら、いかなる義務も負わないように行動することを好んだことは特記すべきである。
パートナーシップの代わりに、依存関係がはびこり、それは時としてウクライナ政権側からのまったく厚かましい性格を帯びるようになった。
エネルギー輸送分野における絶え間ない恐喝と、いつものガスの盗用を思い出せば十分だ。

それに加え、キエフはロシアとの対話を、西側との駆け引き材料に使おうとしていた。
モスクワに接近すると脅して優遇措置を求めた。
そうでなければ、ウクライナに対するロシアの影響力が増すと言って。

ウクライナ政権は当初から、ここを強調しておきたいのだが、まさに最初の段階から、私たちを結び付けているあらゆるものを否定することによって自国を築こうとし、ウクライナに住む全世代の数百万人もの人々の意識と歴史的記憶をゆがめようとした。
ウクライナ社会が、攻撃的なロシア恐怖症とネオナチズムという形をとって台頭した極端な民族主義に直面したのは当然の結果だ。

このせいで、ウクライナの民族主義者とネオナチが北コーカサスのテロリスト集団に関与し、ロシアに対して領土を要求する声がさらに強まった。

外部勢力も一翼を担った。
それらはNPOや治安機関の幅広いネットワークを使って、ウクライナで顧客を開拓し、その代表らを権力の座に押し上げた。

ウクライナは、本質的に、真の国家としての確固たる伝統を有したことが一度もない、ということも理解しておく必要がある。
つづく


写真:ウクライナの地図
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