『マタイの系図から何を読み取るのか』
(2023/12/24)
マタイによる福音書 1章 1~17節
「系図」に記された思い
クリスマスおめでとうございます。今日のテキストは、マタイ福音書の冒頭の系図を選ばせていただきました。聖書を読むのであれば、新約聖書から、とは言いますが、この系図から読み出すと挫折する人もいるのではないか、と思うものです。そして新約聖書の中には、福音書が4つ含まれており、それぞれには福音書を生み出した教会や信仰者の信仰が現れています。そしてその冒頭には、それぞれの教会、著者が持っていた信仰のあり方が現れているといえます。そこで、マタイは系図なのですが、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてダビデからイエス、ユダヤ人、イスラエル民族として「正統なメシア」、ギリシャ語でいうところの「キリスト」である、ということを示したかったからでしょうか?どうも私は違うと思っています。また、系図としては、イエスの父ヨセフに繋がるのですが、マリアは、聖霊によって身ごもった、とされていますので、父親の系図などは関係ないとも言えます。いったいこの系図をどのように読み解けば良いのでしょうか?
冒頭の箇所、マタイ福音書1章1節をお読みします。
「1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
この箇所は、「ビブロス」という単語から始まります。そして、この言葉は「パピルス」という言葉に由来があり、英語の「バイブル」いわゆる「聖書」と訳される言葉の語源でもあります。『記されたもの』『本』『歴史』と訳される言葉です。新共同訳聖書では「系図」と訳されておりますが、まず「アブラハムの子」と「ダビデの子」の名前を列記することによって、アブラハムからダビデの直系の子であるイエスという意味が込められています。それは、ただ単に、イエスはこの家から、この血統から生まれた、ということを示そうということではない、ということです。そしてこの長々と記された人の名は、創世記から始まるイスラエルの民、ユダヤ人と主なる神との「歴史」または「物語」を語る前の振り返りである、と言えます。
系図とは?
そして、ここで考えてみたいのは、系図というのは、あくまで恣意的なものということです。日本でも男性血統に基づいた家父長的な家族観(家族のとらえ方)が一般的です。例えば、日本においても系図といえば、基本的には、誰か1人の個人や関係を起点にして書かれることが多いと思います。家という話にすれば、曾祖父などに立派な人がいて、その人から始まって、自分とどのような関係なのか、という形で見ることが多いでしょうか。しかし、考えてみますと、誰か個人のルーツと言っても、木の幹のように、父母、それぞれの父母(祖父母)、それぞれの父母(曽祖父母)といった形で、子孫だけではなく、遡る形でも系統図というものが出来上がります。また、人の歴史の中においては、母系社会もあり、母系に基づいて、女性中心に系図を考えるという文化もありました。そうした社会においては、系図はまったく違うものになるでしょう。
またこんな想像もできるのではないでしょうか。マタイに記された系図、アブラハムに始まり、ダビデを経て、イエスに至っています。これはイエスが、アブラハムの子孫であり、さらに王家の家系であるダビデ家に属しているということを示そうとしています。しかし、ユダヤ人であれば、基本的にはアブラハムの子であることは当然でした。また更に言えば、マリアは聖霊によって身ごもっているので、父であるヨセフの家系など、血脈という意味では、まったく関係のない話になってしまいます。
マタイにおける「イエスの系図」
そんな前置きから、マタイ福音書に記された系図を、まず大まかに触れてみたいと思います。この系図は、大きく3つに分けることが出来ます。1段落目は、1章2節から6節前半まで。2段落目は6節後半から11節まで。そして3段落目は、12節から16節までです。この三つの分け方にはある種の流れがあります。系図はアブラハムに始まり、そしてダビデまで一四代で記されていますが、ここまでは『上り坂』です。誰もが主なる神を信じる者として生きていた、そしてその頂点がダビデです。そしてその頂点が解るようにダビデにのみ『王』という称号が付与されております。次の2段落目は、実は、王たちが記されています。それなのに、「王」という称号は、まったくつけられておりません。そして、王たちは主なる神を裏切り続け、他の神の信じ、律法を破りました。そして、その結果としてダビデによって建てられた国は亡び、主だった人々は「バビロンへ移住させられ」ました。主なる神に率いられたイスラエルの民としては「下り坂」どん底です。そして3段落目、12節から16節まで捕囚期、捕囚からの解放、そしてイエス・キリストまでの歴史は、「上り坂」です。だだ単の羅列ではなく、この系図にはそのような考え方があって記されているのです。
6節にある「王」という言葉の時代が絶頂期であり、そして逆に、11節12節に記された「バビロンへの移住」は、イスラエルの民の最低の時代です。そして、16節に「メシア」という鍵語が現れます。2度目の絶頂期、「良き時代」の到来をこの系図、歴史の羅列によって記そうとしている、と言えるのです。しかし、内容としましては、かなり眉唾ものです。アブラハムからダビデが14代で1000年ぐらい、ダビデかヨシヤまでが14代ですが500年とちょっと、そしてヨシヤからイエスまでが、500年弱といったようで、まったく歴史的な根拠はかけており、14代で時代が変わった、といった表現、叙述をしたかった、ということだったと思われます。そして14とは7の2倍という数字、世代の変化、時代の変化というものをここには込めたのでしょう。
なぜ4名の女性について記されたのか?
そして、このマタイの系図には一つ、不思議な点があります。このほぼ男性しか記されていない系図に、4名の女性の名前が記されているということです。1章3節に登場しますタマルは、創世記〔創28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持った異邦人の女性であります。そして5節に登場するラハブ〔ヨシュア2章〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻バトシェバも外国人であり、〔2サム11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。が、これらの女性の背景には、いわゆるスキャンダラスな背景があり、なるべくならばこの4名の女性のような「存在」は、どちらかと言えば、わざわざ記すべきような事柄が込められている名前ではありません。
なぜ、この四人だけの名前を書き加えたのか。私の理解は、異邦人中心となっていたキリスト教会が異邦人である自分たちを系図に加えようとした、という捉え方です。マタイ福音書は、ギリシャ語で記されています。当時のキリスト教会は、アラム語を話すユダヤ人よりは、ギリシャ語を話すギリシャ人たちローマ人たちがすでに多数派でした。また、神の子としてのイエスの系図を記すとするのであれば、アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケルの名前をこそ、記すべきなのに、それらの女性たちは皆、避けられています。とすると、やっぱりあえて、この4名の異邦人の女性の話を挟み込まれている。つまり自分たちの主であるイエスの血統は、「ユダヤ人たちのものだけではない」という点に積極的な意味を込めているかもしれない、という理解が出てくるわけです。系図というものはその人の背景を記すものであります。が、男性だけの系図、イスラエル民族だけの系図では、イエスが如何に生粋のユダヤ人の家に生まれたか、血統を持っているのか、ということを示すだけになります。わざわざ、なぜ、この4名の異邦人の、ユダヤ人ではない女性たちを加えただろうか、と考えた時、やはり異邦人であったこの系図を記した人々が、自分たちの姿をこの四人の女性たちに重ね合わせて、記したのではないか、と言えないでしょうか。
私は何者だろうか
10月に始まった、パレスチナにおいて戦争は今も続いています。その広い背景について、宗教と民族、歴史、様々な立場の人々が様々な視点、要素で解説しています。なぜ、そのようになるのか、それはユダヤ人という存在が世界史において、とても微妙な立場であることが一つの理由であると言えます。また、いわゆるヨーロッパ社会におけるユダヤ人への差別意識、「反ユダヤ主義」は、英語では、「アンティ・セミティズム」のセミティズムは、セムという昔の言語学上の分類、大まかに言ってアジア系の言語のことを指します。ユダヤ人はヨーロッパ人ではない、という意識がその根底にあります。また、アラブ人にとっては、逆にユダヤ人とはアラブ人ではない存在で、ヨーロッパ人の一部、おこぼれぐらいの民族という捉え方でしょう。
また、過去において、ナチス・ドイツは、ユダヤ人を批判する時に用いた理屈に、「ユダヤ人は、イエス・キリストを処刑した民族だ」というものがありましたが、この理屈は、ナチス・ドイツの発明ではなく、10世紀のヨーロッパ社会の中で生まれたものでありました。しかし、イエスもユダヤ人であるので、民族としての罪という理屈が成り立つのでしょうか?
そして、振り返って私たちは何者だろうか、という思いも持ちます。最初の預言者として知られているモーセも、その召命のとき、彼が神の使いとして、奴隷として苦しめられているイスラエルの民を救うために、エジプトに迎え、と神の命じられたときの言葉が思い出されます。
「わたしは何者でしょう」【Ex3:11】
イエスの民族性に目を向けた時、どうでしょうか?ユダヤ人でもなく、異邦人でもなく、エジプト人でもなく、アラブ人でもない私たちです。極東と呼ばれる地のキリスト者です。また、イエスが生まれ、生きた時代においては、国家や民族としての歴史も怪しい土地であった場所です。キリスト教を民族の枠で考えたのであれば、まったく関係のない、というか、存在もしれないのが、日本のキリスト者と言えるかもしれません。2000年前の中東、ローマ帝国における辺境、アジアにおける西の果てに生まれたイエス・キリストにとって、私たちは何者であろうか、と。
神の前に相応しい者であろうか
しかし、キリスト教において、キリスト教信仰においては、そんなものは関係ありません。ただ、神の前に謙遜であることこそが、第一ではないでしょうか。そして、ここに上げられた女性たちも、神の前に謙遜だったからこそ、神に選ばれたと言えるでしょう。私は、キリスト教信仰において、神の前に謙遜であること、謙虚であることがとても大切な意識だと思っています。「わたしはキリスト者として相応しい者であろうか」「神の前に立つにふさわしい存在であろうか」という問いです。
今日は、クリスマス(イブ)です。イエスが誕生したとされるベツレヘムのルーテル教会では、今年、クリスマスのお祝いをすべて休止したということです。そしてクリスマスクラッペ(クリスマスの祝いの飾り)は、瓦礫の中に誕生したイエスさまの赤ん坊を置いたものとなりました。そして、その赤子を包む布はパレスチナ人の伝統的な柄のものとなっていました。そして、そこの教会の神父さんは、こうコメントしました。
「もし、キリストが今日生まれるとしたら、イスラエル軍の爆撃と瓦礫の下で生まれるだろう」と。
ガザの地においては、多くの力なき子どもたちや赤ん坊が犠牲となっていることには、本当に心が締め付けられるような思いがします。世界の情勢は、戦争と混乱そして、歴史の流れの中で、あらがえきれない何か、雰囲気を感じてしまいます。しかし、イエスが生まれた時代のユダヤ地方、ローマ帝国の支配の中で抗えない状態の中にいた人々も同じであったでしょう。何事にも始まりがあります。また、平和への希望は、僅かなものかもしれませんが、ゼロではありません。また、赤子の誕生とその笑顔は、多くの人への希望となります。そして新しい生命の誕生は、まさにゼロから何かが生まれる最大の徴とも言えるのではないでしょうか。
光は闇の中でこそ輝きます。寒く、闇の深い季節ですが、そのような時にこそ、光輝く存在を求めて、平和な明日を求めて、過ごしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。