地元紙Edmonton Journalよりリンク

Evacuation order lifted at University of Alberta
No hydrogen sulphide found despite initial fears

http://www.edmontonjournal.com/Evacuation+order+lifted+University+Alberta/2901633/story.html

今日4月13日の朝、アルバータ大学は有毒ガス漏洩の疑いをうけて
構内の一部建物に関する避難勧告を学生に出した。
消防団は構内に有毒ガスを感知しなかったものの、一人の死者が出た事を発表。

と言う事がリンク先の記事には書いてあります。

アルバータ大学にはHUB mallと呼ばれる
レストラン街と学生の居住地が一緒になった場所があって、
(9月か10月のブログに写真載せてるはず)
その中の一つの部屋で、一人の学生が有毒ガス自殺をしました。

記事にある、「検査を受けた3人」は自殺者のルームメートのことだろう、
Hub は4人部屋が基本なので。
おそらく自殺が判明した後に、学校側が大事をとってHUb mallと、
それに隣接する図書館に避難勧告を出したのだと思う。


学生の間で、様々な憶測が飛び交っている。
好奇、それと悼み。


私はもう、ただひたすらに怖くなってしまった。

今日のエドモントンは酷い曇天で、
冷たい風が吹き、ちょっとだけ雨が降っていた、
演出されたような天気で。

私は今日早く起きて、
リチャードさんのcreative writingの授業の発表会に行った。
彼の作品が朗読されているのを聞いている間に、
私と同じキャンパス内に居る学生が自殺をしたのだ。

それはどの瞬間だったんだろう、と考えてしまう。
私が会場の外でコーヒーを汲んでいる時かな、
リチャードさんがリスの件を読み上げている時かな、
もしかしたらそれより早い時間、部屋でベークル食べてる時だったかもしれん。

頭の中で私の朝の記憶が再生されて、
同時にその隣で、一人の学生が黙々と自殺の準備をしている想像が再生される。
私の中の彼は、エンジニアリングを専攻している中国系の学生で、
なんか分厚い化学系の教科書やプリントが置かれた机で、
手に入れた薬品の分量を正確に計り、黙々と自分を殺す準備をしている。
自分の部屋で死んだ後、このキャンパスに与える影響を考えて、少し興奮しただろうか。
もし英語が第二言語で、喋ると中国語の訛りがあって、つねに中国人とばかりつるんでいるような
そんな男の子を想像してしまう。真実みのない勝手な想像である。
しかし私はその横で、ぱくぱくとベーグルを食べている。
そうすると、その絵は極端にリアルになる。凄く怖い。

自殺って、そのチョイスが衝撃的なのだ。
自分で自分の人生を、唐突に終わらせるという選択は
私の頭を擦りもしないけれども、
なんだかそれは実は最もらしい一つの選択のように思えてくるのだ、
こういう事件が起ると。

無意識下の努力で忘れ去られていた、
「自殺」という選択は確かにそこにあって、
それは私といくらも変わらない同窓が
望み通りの死を手に入れることのできる、現実的な方法なのである。
それが急にぬっくと頭をもたげるのだ
ほら、忘れてただろお前。とニヤリとする。
それが凄い恐怖。

この時期に自殺は珍しいことじゃない、とカナダ人が言った。

カナダの冬が長く辛いのは本当である。
冬学期には、Reading week と銘打った、実際はSuicide preventing week自殺防止週間
という休日がカナダ全域の大学に用意されている。
日照時間の短い冬と期末試験期間が重なった休暇である。

でも、エドモントンはやっと冬を越えたところだよ。
今週末は20℃以上になるし、緑がやっとちょこちょこ出て来て
春がきているのになぁ。

知らんけど、こういうセンセーショナルなことがあると、
ナイーブな人や、もしくはこういう機会に乗じてナイーブになりたい私のような人は
この事件に傷つけられたような発言をするのさ。

リチャードなんかは、新聞記事を呼んでから
ぼく一個思い出した事がある・・・・と言いだして
「このHub mallの作りというのはね、ヨーロッパに実在した
 ある刑務所の構造とぞっとするほど似てんだよ。
 その写真を見た時、俺は刑務所をモデルにHub mallを作ったんじゃないかとすら
 思ったんだ・・・」
作家希望のリチャードの口調からは、
刑務所のような小さな部屋に押し込められて手の回りきらない勉強を強いられる
アルバータ大学の学生、ああ大学にしばられる囚人 
みたいなメタファーを感じましたね

ああ、
亡くなった学生本人とは全く関係のない所で、
こうやって物語は増殖していくのだ。
愛する人が命を絶ったら、とか考えて、
勝手にセンシティブになるのだ。
自分の死を、センシティブのネタに使われて、
恋人の絆を確かめるネタに、ブログのネタに使われて

人間というのは、自分に関係のない不幸をみつけると、
意外にも積極的にそれを自分の中に取り込みたかるのだ。
不幸と関わろうとして、自分の物語に取り込もうとするのだ。
本当は不幸が好きなのだ。

でもなんかあたし今すごく怖い。
うう デイビッドソンに会いたい。