動物にも人間と同様の権利がある、
と主張する団体がいる。アニマル・ライツというやつ。
動物を社会の構成員と認め、
動物にも幸福権等を適用することを主張する。
動物実験反対、工場畜産反対、動物園反対、毛皮反対、
(なるべく)ベジタリアン指向。

確かに、畜産工業というのは酷いものがある。
「いのちの食べ方」ってドキュメンタリ見た事あるかな?

食用の卵、鶏肉、豚肉、牛肉、牛乳などを生産するのが畜産ですが、
それに資本主義が介入した今日、どうなってるかというと
低価格、スピード、機械化、効率化、
これを徹底して、もう鶏やらひよこやら豚やら牛やらが
とんでもない状態で飼育されて酷使されて殺されて食べれている、
という状況
それを描いたのが「いのちの食べ方」という映画です。
(魚の養殖や穀物や野菜の栽培とかも描かれてたと思う)

鶏の場合、
ほかの鶏をつついて怪我させたり喧嘩になったりしないように、
ピヨコのうちからクチバシをバチーンって
切り取られちゃうんだよね。
なんか大きいカッターみたいのにクチバシ挟まれて、
ピピー!とか言ってるヒナを、
おばちゃんがぽいぽいと右から左へ淡々と処理していく映像が
記憶に残ってる。

乳牛も鶏も豚も、一生太陽の光を浴びることなく、
最小限に割り当てられたおりの中で暮らして、
ただひたすらに乳牛を生産したり、卵を産んだり、
それか食肉になるためだけに産まれ、生きる。

確かにこの映画を見たら、
人間に利用されるためだけに存在する生命が
どれほど多い事かと気づかれた。

でもそれを根拠に畜産を辞めろと言ったら、
ええと 人類が定住を始めて、豚や牛を飼い始めたを始めた歴史
どれくらいになるんでしょうか
縄文時代より前だろうか、
それくらい長い歴史を今ここで諦めろ、ってことだよね。

豚牛食べるのは問題ないと思う、
私たちは雑食だから。
だから問題なのは、異常なまでに徹底した効率化、
資本主義化なのかな。

確かにここカナダ、
肉類、牛乳、卵、安すぎて怖い。
牛肉500gで300円ちょいとか、
牛乳2lで200円とか、
卵12個で100円ちょいとか、
ターキー、1羽丸焼きで500円くらいで買える。

いくら鶏や豚がおぞましい環境で飼育されて、
薬付けのとんでもない健康状態でも、
丸焼きのターキーになっちゃえばおいしそうだし、
綺麗にパックされた卵や牛乳になって
スーパーに並んじゃえば
嫌悪感なんてみじんも感じない。

七面鳥達が、と殺工場で両足機械につかまれて
宙づりにされて、羽ばたばたしながら
コンベアで流れて行って、
首切りカッターでとんとん首切られて、
毛むしりマシーンでまるはだかにされて・・・
というのを喚起できない、
スーパーでパックされた鶏肉からは。

でも、ちょっと考えると、
そういう工場畜産の殺し方と、
それ以前の殺し方、
例えば、鶏飼いのおばあさんが鶏の首をごきっとひねるようなやつ、
それって苦痛として差があるのかしら?
懐古主義的なセンチメンタルにごまかしてるだけかもしれないよ。

資本主義が介入前の畜産のほうが
動物は幸福度が高いのかな。
しかしそもそも動物の幸福になる「権利」という考え方、
そのもが、人間的発想の押しつけのような気もするけど。
動物の幸福って何?人間の尺度から推し量って良いのかな。

そして工場畜産の批判から産まれた、
有機畜産という考え方。
飼育環境の向上、とか、
と殺の段階で、動物の痛みを軽減してやろうというもの。
牛をしめる前に、気絶させてあげたり、
電気ショックの際にぬれたスポンジを用いたり、なんだり。

普通の卵の倍くらいの値段するけど、
free-run eggs というのがカナダでも売っている。
檻の中に閉じ込められて一生を過ごした鶏じゃなくて、
放し飼いの環境で育てられた鶏からとられた卵です、だって。
こういうのも、有機畜産の一種だ。
でも物は言いようで、ものっそい狭いスペースで
千羽とかがぎゅうぎゅうで飼われていても、
放し飼い って表記できるんだが。

まあこういう取り組み、
「動物の福祉」とも呼ばれるんだけど、
どんどんやるべきだと思う。
けど根本的に、
人間の食用になるために動物を生産しているってことに
変わりはないね。

動物の権利を主張する団体が、
わたしのような無関心に肉卵むさぼり食ってる人間に対して
浴びせかける言葉が
「種差別主義者!」
です。

アニマル・ライツ団体の敬愛する
シンガーという功利主義の哲学者が居まして、
彼は著書内で、
「人間以外の種に属する動物を差別して、
 人間と同等の権利を認めないのは、種差別!」
というのを議論をした。

化粧品やシャンプーに利用されるためだけに飼育される動物、
人間に食べられるためだけに生産される動物、
それらを許せるのは、
人間が他の種の動物に対して差別意識があるからに他ならない。
と言う。

アニマル・ライツ支持の人々は、
動物の痛みを軽減すると殺方法を取る有機畜産に対しても
「福祉という名に隠れ、動物の権利剥奪を正当化している」
と言う。
食用人間が生産されないように、人体実験が行われないように、
人間の動物園が存在しないように、
動物のそれもあってはならない、と言う。

種差別ねぇ・・・
人間の中だけでも差別がこんなにあるのに、
キャンパスのリスと人間を差別せず同等に扱え、
と言われても、今は現実的ではない。
「動物の扱いが最悪だった時代」として、
私の生きた時代が形容される日はくるのだろうか。
私は今日たちどまって考えてみたけど、
明日もあさっても卵や肉を食べ続けるだろうな。

ただ、工場畜産とかの動画、
(ベジタリアニズムのプロパガンダみたいの)
沢山あるけれども、
ああいうのを見ていて思うのは、
人間はすごい所まで来てしまったものだ、ということ。
イマジネーションの届かないところだったら、
何をしても平気になってしまったみたいだ。
おばあちゃんが庭で飼ってる鶏の首ひねってシメるのと、
工業畜産のぬかるみに出ない現状とでは、
やっぱ動物へ向けるイマジネーションが違うだろう。
ターキー首切りカッターマシーンなどのシーンをみて、
おうおう人間って言うのはほんとうにすげぇなぁ・・・
と、不思議な感覚に成った。
怒りとか悲しみとかではなく、
こんな機械を生み出す、イマジネーションというか、
イマジネーションの無さというか、、、

ところで、
サラダ先生がベジタリアンです。
ヒンディー教の教義により。
ベジタリアンの食生活も全然悪くなさそう、
いつもおいしい夕食を分けてもらってるし。

確かに、ベジタリアンになったら、
動物の福祉ー動物の権利、こういう問題も
一発解決なんだけども、人間は肉をやめられるのか。
どうもすみません、ありがたくいただきます
と言って、罪深く肉を口に運ぶのかせいぜいかもしれないね。

「いただきます」
を英語で説明する時、友達が
thanks for your lives、と訳していたことがあって、
周りの外国人がびっくりしていた。
しかし、確かにそうかもしれない。
ナイスな英訳だった。