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日本福音ルーテル長崎教会

長崎市興善町にあるプロテスタントのキリスト教会です。教会での礼拝・集会情報、イベント情報などをお知らせします。

[メッセージ]

                   

長崎教会牧師 黄大衛

 

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2024年9月29日(日) 聖霊降臨後第19主日

「塩味のする者であれ」

裁きへの理解 今日はテキストの後半、42節~49節を中心に教えられたいと思います。この9章は山の上で姿の変わるイエス様の記事から始まり、癒しの奇跡、死と復活の予告、と展開します。そして、イエス様のもたらす福音世界で一番偉い者、そして「誰が味方か」が語られました。そして42節から「罪からの誘惑」の話です。

こうした文脈から見ますと、イエス様のもたらす新しい神の国のリーダー論に続いて、1メンバーとしてのあり方が語られているように感じます。

ここまでは、へりくだるリーダーの姿、逆らわないものは味方、と和合的で穏やかな神の国論でした。ところが、一転して緊張感のある内容になります。

ここでは裁きの炎のイメージが描かれています。罪や悪に対して大胆な表現になっています。「腕を切る」などの勧めは誘惑や試練に負けないための真剣な態度を表しています。ここで罪や悪は私たちの日常生活での現実的問題として語られます。

私たち現代人は裁きの話は好まないです。しかし聖書には恵みや赦しと共に厳しい裁きも語られています。この厳しさからも神様の語りかけを聞きましょう。

42節には「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」を「つまづかせる」ことへの厳しい言葉があります。「小さな者」は37節の「幼子」と結びつくでしょう。

小さな者を躓かせた者への厳しい言葉に、私たちは恐ろしいと感じます。石臼を結び付けて湖に投げ込まれたら二度と浮かべないので死ぬしかありません。

文字通り子ども、或いは立場の弱い弱者に対して自分は何もしなかった、と言い切ることは私にはできません。しかし、逆に言えば神様は小さな者の躓きを漏らさず見ていると言えます。小さな者の一滴の涙、小さな叫びも決して見逃さない神の視点があります。

この記事の前には、誰がイエス様の味方かという内容がありました。この流れで言えば「躓かせる者」はイエス様の敵で、イエス様を信じる「小さな者」は味方でしょう。

私たちは小さい人、立場の弱い人でもあり、一方躓かせてイエス様の敵となってしまうような者でもあるのです。

イエス様の期待 ではこの躓き問題はどう受け止めたらよいでしょうか?今日の福音書の教えは人への断罪より、寧ろイエス様からの期待が示されている真意を見たいのです。

裁かれるべき者が突き落とされるべき海の底や消えない炎の話に続く50節の内容から、その期待が見えるのです。

50節。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と。ここで新たに塩の話が出ます。もう這い上がれない海の底の青い色、燃え上がる地獄の炎の赤から白い塩が示されます。

ここでイエス様は信仰者に、「塩のように互いに平和に過ごせ」と言います。

なぜここで塩を譬えているでしょう?

一般的にも、塩は価値のあるものです。人が生きるための必需品です。防腐、消毒などなど、沢山の機能を持っています。ですから、昨今を問わず、塩はいつでも人に活用されているのです。特にイエス様の時代には、高価なものでした。

それだけではなく、塩にはもう1つの特性があるからこそ、イエス様が例えたと私は思います。塩は何より調味料として、食べ物に味をつけ影響を与えるものです。そして主役として塩味を付けるほか、他の味のものと合わせて使うと、他の味を引き出すことができるのです。ですから、甘い西瓜を食べる時に塩を使うことはまさに塩のこの特性を利用しているのです。中国人の私は日本で初めて西瓜に塩をかけて食べて新鮮に驚きました。

ですから塩のように、溶けて見えなくなっても味をつけて影響を与えたり正反対の味を活かすように、静かに確実に影響を与えて平和を生み出すことこそ、イエス様の期待です。

「塩」と「火」 またテキストによれば、42節から48節まではずっと地獄の話ですが、49節で、イエス様は急に塩の話に移るのです。「人は皆、火で塩味を付けられる」と。ここから、人の内にある「塩」は決して生まれつきあるのでなく、外部から働きかけた結果だと教えられます。

ここで塩と火について考えてみたいのです。

「塩と火」と言えば神への捧げ物規定に登場します。これは旧約聖書のレビ記にあります。塩は、何と火で燃えません。そして、腐らないのです。規定によって塩を、神様への穀物の捧げ物に使うと、神との契約は永遠に変わらないことも意味するのです。

一方火は、試練を象徴していると思います。火によって不純物を燃やします。火は金属を精錬します。火の特性には、清める働きがあります。興味深いことに「火で塩味を付けられる」要請はイエス様の2回目の受難予告の後にされています。同じマルコ福音書の1回目のイエス様の受難予告の後には「自分の十字架を背負って従え」と要請されていました。この2つの要請を並べてみれば十字架を負って従うと、火で塩味を付けられることは同じことを示しているように思います。つまりイエス様に従う道は、塩になる道なのです。

イエス様こそ信仰の原動力 それにしてもここで言う「塩」は決して私たちの内に自然にあるものではありません。では、この「火」はどこから来たものでしょう。

この「火」は今日のテキストにある「地獄の消えない火」ではありません。この1点は今日のテキストの全体を丁寧に読むと分かります。

それでは、この「火」は何の火でしょう?ここで、私はマタイによる福音書3章11節にある洗礼者ヨハネの言葉をふと思い出しました。こうです。

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

もしこの言葉を繋げて考えますと、今日の聖書で言う「塩味を付ける火」はイエス様の働きを指しているのではないでしょうか?もっと言いますと、この「火」はイエス様のみによるものなのです。

一方、私たちはイエス様を信じることによって、救われた者であり、且つ不完全で成長途上の者です。神様の子どもですが誘惑や試練や苦しみの中で生きるのです。信仰を持って生きることは、世の中の試練から解放されることではありません。火で塩味を付けられ、それぞれの人生の宿題に向き合い成長するのが信仰者の人生の旅です。

私たちは繰り返し失敗し、繰り返しイエス様の赦しを神から受け取るのです。そんな道を歩きながら私たちは塩味をつけられていきます。そして小さくても味をつけ、世界に影響を与えるのです。

世界には争い、分離に満ちています。その中で平和を造るのは塩だというのは興味深い教えです。私たちは塩です。けれども味のしない塩ではなくイエス様の取り扱いを受けて教会で教えられつつ、塩気を保ちたいものです。

どうか今日の話を心に留め、塩気のある働き人としてイエス様に従っていきましょう。

 

 

2024年9月22日(日) 聖霊降臨後第18主日

「上りたいなら、まずくだれ」

受難予告における本来の目的 今日のテキストでは、イエス様の2度目の受難予告が記されています。このマルコ福音書は、弟子たちだけへの話として記しています。このテキストでは弟子たちの信仰に対する理解のなさ、鈍さを描いています。この弟子たちの鈍さをまず見て行きましょう。

31節にはこうあります。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。この「人々の手に渡される」という言葉は受難を示す所に初めて用いられた特別な用語です。言い換えれば、イエス様は一回目より、更に明らかにしています。

この受難予告は30節のこういう言葉と呼応しています。30節。「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と。つまり、イエス様は、周りの既に熱狂的になっている政治的雰囲気を遠慮していると分かります。ここで言う「政治的雰囲気」とは、現在の権力者の代わりに、イエス様を救い主として待望している状態を指しています。ですから、ここで、弟子たちだけに、ご自身に関する真の使命を伝えるために、この2度目の受難予告をなさったのです。

無理解と恐怖の理由 しかし、弟子たちは理解できませんでした。32節。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。

ここの「分からなかった」とは、言葉そのものが分からなかった、という意味ではありません。イエス様の言葉は単純で、はっきりとしているので、誰でも理解できるはずです。・・・ただ、弟子たちは、受け入れられなかったのです。

なぜ、この憐れみ深い先生、また大勢の人々の支持も集めているこの先生が、殺されるはずがあろうか、と。

また、同じように、32節の「怖くて尋ねられなかった」というのも、単に「聞いて怒られるのが怖かった」訳ではありません。

イエス様が厳しい方だったとは聖書に少しも記されていません。ですから、恐怖ではなく、寧ろ、言葉に出して聞くことによって、いよいよイエス様の死がより明確にされるのが怖かった、と言えるでしょう。従って、弟子たちはイエス様の死を正面から受け止めたくなかったのです。

消極的表現 さてそこから一転、「誰が一番偉いのか」という議論は、イエス様の受難予告と全く違う印象を受けます。しかし、私はそう思いません。私はこう思います。弟子たちはイエス様の受難予告を聞いて、失望して、視野が狭くなった結果だと思います。

なぜなら、弟子たちは不吉な話を避け、世俗の自分たちの話を話し始めたからです。その行く末が序列の話しです。人は神を見失うと背比べがしたくなるようです。本当に心が満たされている時には、こんな話はしないはずと私は思います。

内面の不安定さから、「誰が一番偉いのか」という議論に熱中していたように思います。

要するに、弟子たちの無理解や恐れ、自分の力を示したい欲は、いずれもイエス様の受難予告に対する消極的な反応です。言い換えれば、弟子たちのこの時の本質は消極的な狭さだと思います。

どうしたらプラス指向に転換できるのか しかし、ここで、イエス様は弟子たちの力比べを否定されませんでした。

イエス様はこう語りかけます。「一番先になりたい者は、・・・すべての人に仕える者になりなさい」と。それは、人の評価などを頭から捨てて、ただイエス様の評価だけに集中することを意味します。つまり、弟子たちの世俗的な欲望を受け入れつつも、それを純化してくださり、軌道修正へと導いているのです。消極的な足の引っ張り合いを積極的な方向へ導きます。それは全くの逆方向で人を下げるのでなく、自分が下がって他者を上げる世界です。

更に、36節、37節では、イエス様が1人の子どもの手を取って弟子たちの真中に立たせ、抱き上げて言われたことが記してあります。ここで、子どもを見せた意図は何でしょう?可愛らしさ、純真さでしょうか?寧ろ子どもの弱さを示していると思います。

言うまでもなく、子どもは全てを親に依存して生きています。逆に、子どもが全てを親に任せた状態だからこそ、生きていくことができるのです。ですから、イエス様は子どものように保護する者に身を任せて生きる手本を、私たちに示しているのです。これこそ、自由と解放の道なのです。

確かに世間の様々なことで、私たちが煩ったり、パニック状態になったりしたことは多いです。お金が欲しい、認められたい、力を示したいのが人の本性です。神を離れた人は視野が狭くなります。そんな時でも、神様の所に帰って、子どものように全てを神様に任せ、イエス様に教えられた通りに少しずつ従っていけば、神様の恵みを知り、広い視野で生きていくことができるはずです。

世界の流れは上を目指し、強さを目指します。歴史上イエス様こそが最弱になり、下る道からの栄光と復活を示されました。私たちはこの世界の中で、低さに帰りながら自由に豊かに他者を生かしていく者、小さなキリストとして歩みましょう。

 

 

2024年9月15日(日) 聖霊降臨後第17主日

「神任せにしない生き方」

 人は様々な関係の中で生きています。家族関係や友人との関係、仕事上の関係など。そして相手の人がどんな人かということを無意識の内に判断して会話し、付き合っています。判断の中には、自分の期待が込められていることがあり、思い込みもあるかもしれません。それ故その判断がいつも正しいとは限りません。

今日の福音書は、弟子たちが、そして私たちがイエス様をどのように受け止めているかが問われているように思います。

地名の由来 さて、イエス様はエルサレムから遠く離れたフィリポ・カイサリア地方に行かれました。フィリポ・カイサリアは、ヘロデ大王の息子のひとりであったフィリポが、ローマ皇帝に敬意を表すためにカイサリアと名付けたところです。

「カイサリア」と言えば、もう一か所地中海沿岸に同じ名前の町がありましたので、それと区別するため、フィリポは自分の名前を合わせつけて「フィリポ・カイサリア」としたのです。

ここはガリラヤ湖よりももっと北にあり、ヘルモン山の伏流水がわき出る大変美しいところです。そこには「パン」という名の豊穣の神が祭られていました。さらにその脇にはローマ皇帝を神として、皇帝の像が祭られていました。

イエス様の質問 そのようなユダヤ教とは異なる神崇拝の場所で、イエス様は弟子たちにこう聞きました。27節。「人々は、私のことを何者だと言っているか」と。

彼らの答えは様々でした。「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤ」とか、「預言者の一人」とかです。このすべては預言者です。ここから一般民衆は、イエス様を預言者として理解していたことが分かります。

するとイエス様は引き続き弟子たちにこう聞きました。29節。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。これは弟子たちの信仰の核心を突く質問でした。

これに対してペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。

これは無理解と勘違いに終始していた弟子たちとしては百点満点の答えでした。

しかし、言葉としては百点だったのですが、ペトロは自分が言ったその言葉の意味は十分理解していませんでした。寧ろ誤解していたのです。

イエス様の歩み 民衆はイエス様のことを預言者と受け取っていました。しかし単なる預言者ではなく、改革を起こす存在と思っていたようです。つまり他国からの支配、貧困や差別などから解放してくれる改革者として期待していたのです。

ペトロたちもそのように理解していたようです。それを悟られたイエス様は、ご自分の受難の予告をしたのです。その内容は到底改革とか世直しの期待に沿わないものです。それでペトロはどうしたでしょう?

ペトロはイエス様を脇へお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ)と。

つまり、イエス様が捕らえられて殺されるなど、あってはならないのです。なぜならペトロは強い改革者のイエス様だと信じてついて来たのです。そのイメージと違うイエス様は受け入れられません。

十字架による救い これに対して、イエス様は言いました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。

それはペトロが、救い主としての使命に向かうイエス様を理解せず、受け入れないからです。ペトロは自分のイメージでイエス様を捉え、そのイメージに縛ろうとしたからです。

さて、十字架の出来事は、神様の愛の究極の表れです。これを抜きにしては、私たちの救いは勿論、私たち人と神様との関係はなくなってしまいます。この十字架の救いこそが私たちに必要なものなのです。

「引き下がれ」という言葉は、直訳すると「私の後ろに退け」となります。イエス様の後に従えということです。人間の思いを優先させる人の欲求ではありません。神様の意思を優先する生き方に「目を向けよ」と言うのです。

自分の十字架を背負うこと そしてイエス様は弟子たちだけでなく、群衆に対してもこう言いました。34節~38節。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る時に、その者を恥じる」と。

ここにはイエス様を信じ従う者への覚悟が語られています。信仰とは、自分たちが思い描くようなヒーローを待ち望み、ヒーローによってすべての問題を解決してもらおうとするものではありません。

寧ろ一人一人の生活にある重荷をしっかり自分自身で担うのです。それは楽ではないですが、自立した生き方です。

今の私たちにとっても、信仰の道は自分の生活の課題を負って行く道です。イエス様を信じればそれがなくなるとか、解決するとかの安易な道ではありません。

私たちの生活と様々な悩みや困難さは依然としてあるのです。信仰者の生き方はそれをしっかり悩み向き合う勇敢な生き方です。そして、その私たちの負うべき十字架、人生の課題を、イエス様が一緒に負ってくださるのです。それが慰めであり、信じる者の力なのです。

結び マタイ福音書11章28節~30節はこう言います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。

くびきとは2頭の馬か牛の首に渡した木で、2つの力を合わせ、重い荷物を運ばせるものです。重い荷物を私1人で負うのではなく、イエス様が一緒に負ってくださり、寧ろ私たちが楽に歩めるようにしてくださるのです。

人は孤独なものです。ですから悩みや困難さも1人で負わなければなりません。しかしそこにはイエス様がおられます。イエス様の十字架に込められた愛を信じて、私たちはイエス様に従って行きましょう。

 

 

2024年9月8日(日) 聖霊降臨後第16主日(牧師体調不良のため、信徒による代読)

「信仰を育てる神」

 今日の福音書は、2つの癒しの出来事を伝えています。場所としては、離れています。1つはティルス、もう1つはガリラヤ湖です。31節。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と。

シドンはティルスの北にあり、デカポリスは南東のヨルダン川の右岸の地方ですから、さらにガリラヤ湖はその北ですから、地理的に見るならばこの移動経路は少々無理があります。しかしそれにしても、福音書記者マルコはまさにこの説明を通して、イエス様が福音をユダヤ人の地に限らず、異邦人の土地にも宣べ伝えていると人に伝えたいではないかと私は思います。

今日は2つの癒しに見られる信仰の姿を見たいのです。

子犬という信仰 まずギリシャ人女性の信仰を考えてみましょう。25節。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と。

詳しいことは分かりませんが、この娘は何かの病気だったでしょう。当時は、病気は悪霊の仕業と信じたからです。実際、精神疾患があったのかもしれません。とにかく、この女性は娘のために必死にあちこちの医者や祈祷師に願ったでしょう。しかし結果としては失望に終わるのでした。

今彼女はイエス様の所に来ました。彼女にとってユダヤ人であるイエス様に頼むこと、しかも多くの人の前で願うことは、とてつもなく勇気が必要でした。ユダヤ人にとって、この女性は祝福の対象外の外国人です。それでも、母なので行動に出ました。

しかし、イエス様の態度は大変冷たいのです。27節。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と。

小犬と言うと、今の私たちの感覚では可愛い小犬をイメージしますが、ユダヤ人にとって小犬とは、汚らしい目障りな存在です。

彼らは羊を飼うにしても牧羊犬など使いませんでした。犬は信頼の置けるファミリーメンバーでもありません。ユダヤ人にとって犬とは乱暴で役に立たず、食べ物を求めてうろつきまわり、人の傷をなめ、戦場では死体を食い荒らすような存在です。

このように、小犬は卑しい蔑称の意味で語られているのです。

信仰とは さて、勇気を振り絞ってイエス様のもとに来た女性は拒絶されました。これからどうなるでしょう?

ところで信仰とは、願い事を請求書のように神様に送りつけることではありません。流れ星に願い事をする時、人の心には願いそのものしかないでしょう。

一方、願い事を願う自分をどうするかが信仰です。自分を神様の前に差し出すことは重要です。・・・人に願いがある。その願いはどこの誰に頼むのか?そしてその相手とどう向き合うのか?聖書の神はそれを問います。

確かにこの女性も最初は娘を救って欲しいという直接の願い事がありました。そしてそれは今も彼女の重要な問題です。しかし、それだけだったなら、彼女はあきらめて帰っていたでしょう。

しかし彼女は絶望的な状態にありました。もはやイエス様以外に救いのあてはないのです。彼女は腹をくくっていました。「外国人である私が拒否されるのは当たり前、それでもユダヤ人が受ける恵みのおこぼれでいい」と自分の自尊心など忘れているのです。「子犬でも食卓の下のパン屑はいただきます」と。

しかしこの言葉はイエス様を動かしたのです。そしてこの女性と娘に憐れみを注がれたのです。

私たちが日ごろ持っている知恵や力、誇りや自尊心は、私たちの間では意味を持っていても、神様の前では意味を持ちません。寧ろそれらが神様と出会う時邪魔かもしれません。私たちは神様の前に立つ時、色んな飾りや名札を捨てて幼子のように出るしかありません。

しかし、神様は寧ろ裸で素朴な私たちを喜んで受け入れてくださるのです。その意味で、神様の前にすべての弱さを明らかにしてすがる時、そこに救いと平安が与えられるのです。

信仰の受益者 以上、外国人の母親の信仰を見ました。次に「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」を考えてみましょう。

ここに登場する人は耳が聞こえない人ですので、自分でイエス様の噂を聞いたわけではないでしょう。ですから結果としては、彼はまさに周りの人に連れて来られたに違いありません。友人たちが彼を連れて来たのです。

ここに友人たちの彼に対する愛とイエス様への信頼があります。この障碍を持つ人はこれまで人前に出ることもなく、目立たないようにひっそりと生きてきたでしょう。そんな人が突然、群衆の中心にいるイエス様の前に連れて来られたのです。そして、まさにこうして、神と出会い、彼の人生は変えられるのです。

ですからこの事例の信仰は、病人本人と彼を運んできた人たちの団体に見られるのです。

では、イエス様は彼らにどう対応したのでしょうか?

マルコ福音書2章5節を見ましょう。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」と。イエス様はここで、彼らの行動を褒めていません。しかし、イエス様の一連の行動には、彼ら一同の願いにまっすぐ応えておられる様子が見えます。

更にイエス様はこの病人だけを群衆の中から連れ出し、一対一で向き合われたのです。そして指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れました。少々神秘的、魔術的なしぐさです。しかしこれが魔術でないことは次の言葉から分かります。

イエス様は天を仰ぎ、深くため息をつき、そしてその人に向かって「エッファタ、開け」と言われました。天を仰いだことには、イエス様の神への祈りが見えます。また深いため息は、この耳の不自由な人のそれまでの苦しみや辛さ、不自由さをしっかりと受け止められたしるしです。

イエス様はそのように、この人の耳や口だけでなく、彼の全人格に向けて働きかけ、彼を慈しみ、その苦しみから解放したのです。

信仰を育てる神 以上、この2つの癒しの事例を通して、信仰の育ちの主導権が完全にイエス様にあると分かります。そのように今も、イエス様は愛をもって人を育てているに違いありません。

この愛はイエス様と向き合う私たちにも注がれています。誰にも話せないような思い、誰にも理解できない気持、誰とも通じ合うことができない心、そのような私たちの心をイエス様は開いてくださり、受け止め、愛を注いでくださるのです。

その証しが十字架です。イエス様は十字架によって私たちの全てを受け止めたのです。

イエス様の愛によって、私たちも心の耳が聞こえるようになれるのです。本当の心の声をしゃべれるようになれるのです。それで何を聞き、何を語り始めるのでしょうか?それはまずイエス様の言葉です。そして最初に口を衝いて出た言葉は、イエス様への溢れる言葉であったに違いありません。それは赤ちゃんが愛する人の声を聞き分け、言葉にならない呻きで愛する人に発する声のようです。

愛する相手の声を聞き、その相手に声を発すること、これは人にとって幸せなことです。そのためにイエス様に開いてもらうのです。それは真の言葉が生きる瞬間です。

どうかイエス様の働きかけを心に留め、主の声を聞き語りかける私たちでありたいものです。

 

 

2024年9月1日(日) 聖霊降臨後第15主日

「心の衛生」 

 私の性格は元々外向的で、明るいのですが、日本に来て、特に日本の群れに入って、言葉で周りと通じにくいので、徐々に言葉を抑え始め、そしていつの間にか性格も内向的になってきました。しかし内向的性格はそもそも私の本性ではないので、気持ちとしてはすごく抑圧され、顔も知らない内に暗くなってきました。

しかし来日7年目の神学生7ヶ月の実習が始まってから、暗い気持ちは一転して明るくなりました。なぜかと言いますと、次のような交わりのコツを周りから教えてもらったからです。つまり、交わりが言葉だけではなく、心も伴わなければならない、ということです。その時から、私の自信も倍増して、下手な日本語でも自発的に人と話し始めたのです。結果としては、言葉のハンディキャップを乗り越えて、人との交流ができました。

人との交流、人と心が通じ合う喜びは人として大きな幸せです。

さて今日の福音書の日課は、信仰においての心の有り方を教えます。私たちは今日、このテキストに従い、私たちの信仰をもう一度考えて見たいのです。

聖書の背景 今日の聖書の1節~5節までを読んで、皆さんはどういう印象を持ったでしょう?私はすぐ、コロナウイルス氾濫の時期に強調した手の洗い方を思い出します。その初期に、私の勤めていた大学では、わざわざ手洗い効果をチェックする器械を購入しました。そして大学の全員に手を正しく且つ徹底的に洗うことを促したのです。

私もその担当の職員に強いられて、効果をチェックしてみたのです。何と、いくら丁寧に洗ったとしても、菌は所々に残っていたことを知り、ハッとしました。

ですから、今の聖書に決められた規則は衛生や健康を守るために、効果があると思います。しかし、それで信仰を計ると、その無理を感じます。

そもそも、その規定は衛生維持のためで、信仰維持のためではありません。イエス様は15節にこう指摘しました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。

これは勿論細菌感染がないとか、不潔でも構わないということではありません。イエス様は外側の清潔論争から、内側の心の清潔へと話を転換しています。

現状に至る原因 ここで、イエス様は清潔問題にとらわれて、他者の生き方や信仰を批判する人々に、はっきりと指摘しました。8節。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と。そもそも律法の決まりには問題がありません。問題は「人間の言い伝えを固く守った」ため、徐々に神の本来の意図を離れてしまったからです。

つまり本来の意図は衛生であり、人々の健康です。しかし今や、ここで争う人は、人の健康や利益、幸せなど見ていません。ここでイエス様は、人が神の掟を捨てたことを責めていますが、これは言い過ぎでしょうか?

実はそうではありません。当初神からの掟は十の戒めだけでした。それを完全に実施できるように、歴代の偉い人たちは絶えず説明を加えました。それがいつの間にか、その補足は主要な部分より膨大になってしまいました。雪だるまのように膨れた決まりを完全に守るために、人は必死になっていきます。なぜなら「汚れている」ことは社会生活から締め出されることだからです。

それで、長い歴史の中で徐々に神の本来の意図は見落とされました。本来の神の意図は人の幸せです。例えば、今日の聖書の3節、4節の内容はまさに後の補足説明であり、人の言い伝えなのです。

そのように、人々は歴代の専門家の教えを漏れずに守るために、無意識の内に神の本来の意図を忘れてしまい、外側の行動に力を尽くしたのです。それ故、皮肉にも真面目に頑張った結果、「神の掟を捨てた」状態になったのです。そのことは誰もが問題にしなかったでしょう。当然のしきたりとして受け入れていたのです。どこか行き苦しく自由はなくとも人はそのまま形を守っていたのです。

ですから、この1点こそ、私たちにも注意すべきことです。信仰は心をご覧になる神に見せるものです。

神の目 では、神は私たちをどのように見るのでしょうか?

サムエル記上16章の7節にこう書いてあるからです。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。

私たちが信じている神様は、私たちの表のことによって私たちを判断されるのではなく、私たちの心によって私たちを判断してくださいます。では、完全な神様の前に差し出せる心など、私たちの内にあるのでしょうか?実は私たちは神の前に汚れていて、不完全で、信仰などないような正直な心を差し出せばよいのです。

詩編51編にこういう言葉があります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を」と。新改訳聖書ではこう訳されています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」と。

そして、心の衛生、健やかさに留意する必要があるのです。今日の15節。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。

聖書では、21節から23節まで、人を汚す実例をイエス様は列挙しています。それは信仰の有無を問わず、すべての人に適用する教えです。それにしても、私たちはこれらも見て途方に暮れてしまうのではないでしょうか?

ではいったい、私の心の内から良いものが出るだろうか?確かに私たち自身だけでは、良いものは続きません。しかし聖書はこう教えます。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)と。

今イエス様は私たちの人生の中に、神様の言葉を回復し、神の心が分かり、幸せになるように、私たちに教えているのです。どうか今日の御言葉を心に留め、神様に心を差し出して、清め、健やかにしていただきましょう。

 

 

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