5月18日、朝鮮半島では、朝鮮軍が開城を防衛する為に都元帥の金命元が13,000の兵士で臨津江に防衛線を張るが、二番隊の加藤清正達が撃破した。
戦の前に小西行長は朝鮮側に書簡を送り、交渉を拒否されている。
その後何回か書簡を送ったが、いずれも拒否された。
朝鮮王朝は勝利を信じて楽観視していたが、金命元の敗報を受けて、一転色を失い、国王は第四王子と第五王子を寧辺へ先に避難させて、平壤の護りを固めさせた。

5月19日、一番隊小西行長や宗義智達が臨津江へ向けて出発した。
豊は、慣れない騎乗での戦いに苦労していた。
義成の影武者となったばかりに、大殿の義智の側から離れられずに、本来の間諜の仕事が出来ませんでした。
それでも間諜の知識を活かして、大将の義智の安全を横にいて確保していたのでした。
そして、百戦錬磨の義智や小西行長の布陣の方法や、兵士の配置方法をみてとても良い勉強をしていました。

5月27日、一番隊と二番隊が合流して、臨津江の下流から渡河をすると、この地区を守備していた朝鮮軍は遁走し、一矢も放たず駆逐したのでした。
朝鮮軍の残兵達は平壤にへ逃走した。
日本軍は開城を占領して続いて平壤に進撃して行った。

開城陥落後、日本の諸将は漢城にて軍義を開いた。
各方面軍による八道国割の制圧目標を決めたのでした。
その内容は
平安道へは一番隊小西行長他、咸鏡道へは二番隊加藤清正他、黄海道へは三番隊黒田長政他、江原道へは四番隊毛利吉成他、忠清道へは五番隊福島正則、全羅道へは六番隊小早川隆景他、慶尚道へは七番隊毛利輝元、京畿道へは八番隊宇喜多秀家となっていた。

小西行長の一番隊は北進し、黄海道の平山、瑞與、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道の中和を占領した。
この中和で三番隊の黒田長政達と合流して、大同江の北岸の平壤に進軍した。
10,000の兵士で護っていた朝鮮軍に30,000の日本軍兵士が攻めていったのでした。
ところが、朝鮮軍の防衛準備で、大同江を渡河する船は全く無かった。
日本軍が平壤に迫ると、宣祖は遼東との国境である北端の平安道義州へ逃亡し、冊封に基づき明に救援を要請した。

6月14日夜、朝鮮軍が密かに河を渡り、日本軍宿営地を奇襲したが、宗義智達が駆けつけ背後から攻撃し、さらに河を渡って来る朝鮮軍の援軍を撃破した。
ここで、残っていた朝鮮軍は平壤に退却した。
追撃しようとする義智を、影武者となっていた豊が止めて言った。

「殿、ここで少し追撃を待って、朝鮮軍がどの様に河を渡って帰るかを観察しましょう。」

7月16日、朝鮮軍が河の浅瀬を使って引き揚げるのを観察しました。
そして、河の浅瀬を確認してその浅瀬を使って日本軍は整然と大同江を渡って行きました。

   大同江

この様子を観て、朝鮮軍は平壤を放棄した。
一番隊小西行長達は6月15日、平壤を制圧したのでした。
そして、立て札を立てて、民を安心させて、その一方で、城内の兵糧数十余万石を押収したのでした。

7月24日、一番隊と三番隊はすでに放棄されていた平壤へ入った。
八道制圧に諸将は戦っていたが、小西行長は最初は李朝鮮と、後には、明との和平交渉を模索していました。
それで平壤で北進を停止しました。

12月1日、平壤近郊の中和の砦に立て籠っていた朝鮮軍を宗義成、つまり、豊が攻撃して殲滅させたのでした。

日本軍の戦いは各地でそれぞれの部隊が戦果を上げていました。
11月10日、咸興の戦い。
文祿2年(1593年)1月23日、瑞川の戦い。
1月28日、白塔郊の戦い。
等々。
この他にも、各地で各部隊は朝鮮軍と激突して、勝利を得ていた。
水軍も各地で戦い釜山を始め、補給路の確保をしていた。

7月16日、宣祖の要請を受けた明軍が到着した。
明軍5,000兵が、平壤を急襲したが、一番隊小西行長達が大いに撃破した。

明軍の参戦を受けて、日本軍は軍義の結果、年内の進撃は平壤で停止し、漢城の防備を固めることとした。

明軍はこの第一次平壤城の戦いの敗戦を観て、沈承訓を代表として日本軍に講話を提案して来たのでした。
この後、日本軍と明軍とで交渉が持たれたのでした。
この交渉には、小西行長軍からは孫次郎が、宗義智軍からは義成こと豊が出て対応したのでしたです

7月29日、朝鮮軍が10,000余りの兵で平壤を攻撃してきたが(第二次平壤の戦い)、一番隊の小西行長達が大いに撃破して、朝鮮軍は多くの損害を出して撤退した。

二番隊の加藤清正達は7月から8月中旬までの間、オランカイ(女真族)の戦力を試すことと明攻撃の進路を模索するために、豆満江を渡って満州入りをした。
近郊の女真族の城を攻撃した。
この戦いには、国境近くの朝鮮人3000人も加わり、毎回越境して来て朝鮮人を悩ましていた為に、日本軍に加勢したのでした。
まもなく、城を陥落させて、国境近くに宿営したが、日本軍は女真意族から報復攻撃を受けて悩まされた。
戦況は優位にたっていたが、撤退して東に向かい、豆満江の河口のソスポに到達した。

明軍の参戦を受けて、朝鮮奉行である石田三成、増田長盛、大谷吉継、それに秀吉の上使の黒田孝高等は漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた。
この評定で、「今年中の唐入りの延期」「秀吉の朝鮮入りの中止」を決めている。

  太閤秀吉

8月29日、沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦が約束された。
李氏朝鮮はこの休戦に反対したが、明国に押しきられた。
しかし、明はこの期間中に日本軍の殲滅作戦を進めていた。

                                                                                    (つづく)