他人の“恵まれた光景”に心がざわつくとき——比較の心理をどう扱うか
街を歩いていると、ふと胸の奥がざわつく瞬間がある。
艶消しマットの黒い高級車が信号で止まり、運転席には洗練された雰囲気の医師らしき人物。
後部座席から降りてきた子どもは名門校の制服に身を包み、整った所作で駅へ向かう。
その横顔や、スマホに目を落とす仕草から、“順風満帆な生活”が自然と想像される。
そこには、努力・選択・偶然が折り重なった幸福の総体のようなものが、静かに存在している。
そして、見てしまった側はつい、自分の生活と秤にかけてしまう——
「どうして、あなたばかりそんなに恵まれているのだろう」と。
■ 比較は、人間の思考が勝手に生み出す現象
しかし、心理学の視点では、こうした比較は“自然な心の作用”にすぎない。
人間は環境の中で自分の位置を測るようにできており、比較が生まれるのは反射に近い。
重要なのは、比較そのものではなく、そこで生まれた感情をどう扱うかである。
■ 「他人の物語」と「自分の物語」は交わらない
目の前にあるのは、他人の人生の“ごく短い切り抜き”であって、物語全体ではない。
幸福に見えるシーンだけを集めれば、誰でも理想的な物語に仕上がる。
他人の光景は、たまたま自分の前を通り過ぎた瞬間にすぎず、
その一コマと自分の人生全体を比較するのは、本来きわめて不公平な行為だ。
■ 自分も相手も「同じ条件」のもとにあるという事実
比較心を静めるひとつの方法は、
「彼も我も、同じ“限られた人生条件”の中で生きている」という事実を思い出すこと。
どんな人も、寿命は有限で、悩みを抱え、思い通りにならない現実と向き合う。
その意味で、人は本質的に平等である。
幸福に見える瞬間を切り取っても、
その背後には、その人にしか分からない葛藤、選択、負荷が必ず存在する。
■ 比較から距離を置くという知性
結局のところ、比較心を完全に消すことはできない。
しかし、「比べても意味がない」という知的理解を自分に返すことで、
心のざわめきは静かに沈んでいく。
他人の光景は、単なる一場面にすぎない。
自分の人生は、自分にしか紡げない長い物語である。
比較ではなく、観察として眺める——
それが、心を軽くし、冷静さを取り戻すひとつの知性だ。
外付けハードディスクを手に入れたような解放感――トランクルームを借りて良かった話
きっかけは家族からの要請でした。
「もう家が物でいっぱい。少し外に逃してはどうか」と。
半信半疑のまま借りたトランクルームでしたが、今となっては心から「借りて良かった」と思っています。
■ キッチンに戻ってきた“空気”
キッチンには、意外と“今すぐには使わないけれど捨てられない物”が多いものです。
防災用のカセットコンロ、思い出深いクックポット、パン焼き窯……。
どれも大切で処分に踏み切れない。けれど、常に炊飯器の横に並び、じわじわとキッチンを圧迫していました。
ところが、これらをトランクルームに運び込んだ途端、視界がみるみる開けていく。
驚くほどスッキリし、得られた解放感は、トランクルームそのものの広さ以上でした。
■ すぐには捨てない教材、本や雑誌も“安心して退避”
子どものリクエストで捨てられない作品や教材、
「末っ子が大学に進学するまでは置いておきたい」と思うプリント類、
いつか読み返したい本や雑誌。
これらもトランクルームがすんなり受け入れてくれます。
まるで外付けハードディスクを増設したかのように、どんどん収納してくれる安心感。
住空間はそのまま、心地よさが何倍にも広がっていきました。
■ コストはかかる。しかし家賃よりは圧倒的に安い
もちろん維持費は発生します。
けれど、人間が住む家の家賃に比べれば、驚くほど割安です。
“人が住むスペース”に、家族それぞれの思い出や保管物が占領してしまう前に、
外に預けるという選択肢はもっと早く取れていたのかもしれません。
■ 住む場所は「保管庫」ではなく「生活の場」に
家族と暮らしていると、気づかぬうちに
「思い入れのある物の保管庫」に住んでいるかのような状態になりがちです。
けれど、本来の家は“暮らす場所”。
ほんの少しの行動と、毎月のわずかな費用で、
私たちは住空間の清々しさを取り戻すことができました。
■ 結論:トランクルームは外付けハードディスクだった
今、我が家は風が通り、気持ちにも余裕が生まれました。
「家族が独立するまで我慢しなくてよかった」と心底思います。
トランクルームを借りるという小さな決断が、
暮らしの快適さをこんなにも変える――。
この体験を、少しでも誰かに届けたいと思い、筆を取りました。
平野啓一郎『息吹』——“二人の自分”が消えるとき
平野啓一郎『息吹』は、読者に静かな衝撃を与える小説です。
作品の中心にあるのは、病により死に向かう本体の“息吹”と、
その本体が生み出した“妄想としての息吹”です。
物語で語り手となる息吹は、自身が「助かった自分」だと信じて日常を送っています。
しかしあるとき、明晰夢のような気づきが訪れます。
——自分は、本体である“死にゆく息吹”が生み出した妄想なのではないか。
妻や子どもと過ごす日常も、
がんを免れたという安堵も、
未来への小さな希望も、
すべては「死を受け入れがたい本体の息吹が描いた幻想」ではないかという疑念が膨らんでいきます。
主人公はその事実を妻に告げようとしますが、妻はまったく信じません。
当然です。
彼女自身が“妄想世界”の住人なのですから。
語り手だけが現実を観察し、理解し、そして恐れ始めます。
「本体が死ねば、自分も消える」という確信が、作品の緊張を高めていきます。
やがてその時が訪れ、
“本体”である息吹が現実世界で亡くなった瞬間、
妄想としての“助かった息吹”の世界からも、彼は跡形もなく消えてしまいます。
そして最後の場面。
朝になり、突然現れない父を探す母親が「パパは?」と声を上げます。
その姿を、息子だけが静かに見つめています。
「……パパ?」
息子は母に問い返します。
その短い言葉には、
父が“二人”いたことの気配を、
あるいはどこかに不自然さを感じ取っていたことを、読者に暗示させる余韻があります。
『息吹』は、分人主義を極限まで推し進め、
「自分が“自分の妄想”であると気づく」
という、きわめて稀有なテーマを扱った作品です。
読む者に、
もし自分が選ばなかった人生、進まなかった未来があったとして、
それがどこかで“妄想”として息づいているのではないかという不思議な感覚を残します。
深い余韻と哲学性を併せ持つ一作でした。


