羊をめぐる冒険 上
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若い頃に読んだ本を、三十年という時間を隔てて再び開く。
その瞬間の静かなときめきは、初読の衝撃とも、再読の安心感とも少し違う。
ページをめくる指先が覚えているようでいて、物語の細部はほどよく霧がかかったまま——。
村上春樹『羊をめぐる冒険』を久しぶりに読み返した私は、
“忘れてしまうことの豊かさ”という不思議な感覚に包まれた。
いい感じに忘れている、という幸福
本を読み返すとき、「内容がほとんど思い出せない」ということを残念に思う人もいる。
ところが実際には、その“忘却”こそが再読の醍醐味をつくってくれる。
昭和の匂いが残る札幌、蒼い光に包まれたジャズバー、
手を差し伸べれば届きそうで決して触れられない不思議な女性——。
30年前の私は、それをただ「奇妙な冒険」として読んでいたはずだ。
けれど、今の私は、その奇妙さの裏に潜む孤独や喪失に、自然と心が引き寄せられていく。
同じ文章なのに、読者が変わると物語が違う顔を見せる。
そのことを改めて思い知った。
“羊”は物語の中心ではなく、読者の鏡なのかもしれない
村上春樹作品には、抽象的な象徴がしばしば登場する。
この作品の“羊”もその一つだが、30年経った今読むと、どうも羊という存在は「追いかけるべき何か」の象徴というより、
むしろ“読者の人生の段階を映す鏡”のように感じられた。
若い頃に読んだときは、自分が冒険しているような気持ちになった。
今読むと、「失われたものをどう受け止めるか」という大人のテーマが浮かび上がってくる。
物語そのものは変わらなくても、
自分の経験や年齢によって、
“同じ物語が別の物語として立ち上がる”。
これが再読の魔法だ。
■ 匂いまで戻ってくる読書の時間
本の中に登場する、レコード店の埃っぽい匂いや、
北海道の空気を満たす冷たさを読むと、
30年前、同じ箇所を読みながらコーヒーを飲んでいた自分の姿まで一緒に蘇ってくる。
あの頃の自分と、今の自分が、
一冊の本を媒介にして静かに握手しているような感覚がある。
読書とは、ただ物語を読む行為ではなく、
自分の人生の時間と再び出会う行為なのだ。
「忘れたから、また読める」という豊かさ
再読は、記憶を確かめる作業ではなく、
時を経た自分と本の間に、新しい関係を結び直す作業だと思う。
30年ぶりの『羊をめぐる冒険』は、
初めて読むような新鮮さと、
昔の自分にそっと触れる懐かしさが同時に押し寄せる、
とても贅沢な体験だった。
思い出せない部分が多くても構わない。
むしろその曖昧さが、再読のページを輝かせてくれる。
人生の折々で同じ本を読み返すという行為は、
新刊を買うのとはまた違った、深い味わいをもたらしてくれる。
忘れたからこそ、また読める。
忘れたからこそ、驚ける。
そして、忘れたからこそ、再び好きになれる。
天満駅から徒歩すぐ。暖簾をくぐると、凛とした空気の中にふわりと温度のある雰囲気が漂う。
カウンターだけの小さなお店「ノドボトケアガル」さん。店名のユニークさと裏腹に、目の前で繰り広げられる仕事は、まさに“日本の寿司職人”の矜持そのものだった。
■ あて2品と寿司八貫で3,980円の満足
まず供されるのはあて2品。小さな皿にのる一口の世界に、すでにこの店の哲学が凝縮されている。
優しい味付け、丁寧に施された包丁仕事。これから始まる寿司の舞台を予感させる、静かな導入だ。
続いて寿司八貫。
どのネタも、まるで宝物を扱うかのように繊細に仕込まれている。目の前のカウンターで、職人の手がシャリとネタを一体化させていく所作を眺めていると、こちらの呼吸まで自然と整う。
すべてがすでに味付け済み。
客はただ、出された寿司を信じていただくだけで良いという潔さ。
醤油皿を用意する必要がないほど、ネタとシャリに職人の判断が完璧に宿っている。
■ ガリもわさびも“脇役の粋”
ガリが美味しい店に外れなし、という持論がある。
こちらのガリはまさにその証明で、上品な甘みと爽やかな香り。わさびも香り高く、辛みの角がない。
主役に寄り添う“分をわきまえた名脇役”という印象だ。
■ 丁寧が最後まで続く、締めの赤だし
最後の赤だしに至るまで、丁寧の連続。
お魚の出汁がふくよかに広がり、驚くほど骨がしっかり取り除かれている。
最後の一滴まで、店の誠意が滲む。
■ 結びに
3,980円という価格を忘れてしまうほどの、手間と心のこもった一品一品。
職人の所作を間近で見ながら寿司をいただくという贅沢に、思わず“ノドボトケアガル”瞬間が何度も訪れた。
天満の街で、こんなにも気持ちを静かに満たしてくれる寿司屋に出会えるとは。
心から「素晴らしい」と言いたくなる一軒だった。
大阪には、商人の栄華がそのまま地名として残っている場所がいくつかあります。
「天五に平五(てんごにへいご)十兵衛横丁です。
この名称は、単なる数字の遊びでも、町名整理から生まれたものでもありません。
大阪を代表する二人の“五兵衛”が、向かい合って壮麗な屋敷を構えたことに由来する、きわめて大阪らしい由来を持っています。
二人の“五兵衛”が向かい合った町
天王寺屋五兵衛(てんのうじや ごへえ)
江戸時代、大坂屈指の豪商として知られた両替商。諸藩の財政を支え、莫大な運転資金を取り扱ったことから、今でいう“メガバンク”のような役割を果たしていた存在です。
もう一人の五兵衛平野屋五兵衛(同時期に両替商として栄えた豪商)
天王寺屋五兵衛と並び称される財力を持ち、町人社会に並外れた影響力を及ぼしました。
この二人が、屋敷を挟んで向かい合うように構えていた
—という事実が、大阪の町に一つの地名を生みました。
十兵衛横丁という名の誕生
五兵衛が二人。二人合わせて「十兵衛」。
この洒落の効いた命名センスが、いかにも大阪らしい遊び心です。
二つの巨万の富が向かい合った通りは、
その繁栄ぶりと緊張感を象徴するように、後に「十兵衛横丁」と長く呼ばれ続けました。現在大阪市北浜付近にある開平小学校の南側の通りです。
しかし——現代の私たちの方が豊かに暮らしている
歴史に名を残す豪商たちの財力と影響力は、まさに“桁違い”でした。
らが扱った金額は、現代の国家予算に迫るとも言われます。
しかし、人の暮らしという観点から見れば、
私たち現代の市民は、彼らが決して手に入れられなかった豊かさを日々享受している。
● 清潔で安全な飲み水
江戸の豪商でも、井戸の水質に悩まされることがありました。
現代では水道をひねれば安全な飲料水が出る。
● 交通手段
徒歩・駕籠・船が限界だった時代。
私たちは電車、車、飛行機の恩恵を受け、僅か数時間で当時の人々の一生分の移動距離を超えます。
● 医療と寿命
いくら富を積んでも、感染症や外傷は命取りでした。
今、私たちはワクチン、抗生物質、画像診断、救急医療に守られ、平均寿命は当時の倍以上です。
● 情報のアクセス
豪商であっても、情報の収集は人を雇い、書物を買い、時間を要しました
私たちはスマートフォン一つで世界中の知識へ瞬時にアクセスできます。
富豪の象徴だった場所も、時代の流れの中で「誰もが豊かに暮らす時代」へ
十兵衛横丁は、かつては二人の“五兵衛”の巨富の象徴でした。
しかし、時代は変わり、富のあり方も変わりました。
今日の市民一人ひとりが享受している
科学技術による生活の質の向上は、
当時の豪商たちですら想像できなかった次元の豊かさです。
地名が語るのは、かつての繁栄だけではなく、
技術が「富の独占」から「富の共有」へと価値観を変えた歴史でもあります。
十兵衛横丁のエピソードは、
私たちがいかに恵まれた時代に生きているかを静かに教えてくれる、そんな物語でもあるのです。