「こんなんも、昔なかった…」京都大学総合博物館に、ふらりと入って度肝を抜かれる
母校再訪のつづきです。
スクラップアンドビルドに戸惑いながら構内を歩いていると、見慣れぬ立派な建物が視界に入る。
京都大学総合博物館。
「こんなん、昔なかったよね」
「ちょっと入ってみようか」
この“ついで”の判断が、完全に当たりでした。
想像以上に、本気
一歩足を踏み入れて、すぐに分かります。
ここは「大学のおまけ施設」ではありません。
まず圧倒されるのが、
ナウマンゾウ、マンモスの化石。
写真やイラストで知っているのとは、迫力がまるで違う。
骨というより、時間そのものが展示されている感覚です。
さらに、
水晶、石英、金——
整然と並ぶ鉱物標本の美しさ。
理科室の延長などという生易しいものではなく、
“研究の現場そのもの”が一般公開されている印象を受けます。
75分の本格登山映画という贅沢
そして、思わず足を止めてしまったのが映像展示。
ヒマラヤ連峰・チョゴリザ登頂の記録映画。
上映時間、75分。
撮影は1974年。
れっきとした、本格派の学術・登山映画です。
編集も音も、今どきの派手さは一切ない。
けれど、その分、
研究者たちが「そこへ行き、見て、記録する」ことに人生を懸けていた時代の気迫が、真正面から伝わってきます。
大学が、こんな映像を黙ってアーカイブしている。
それ自体が、もう驚異です。
価格設定に二度見する
そして最後に、思わずもう一度チケットを見返しました。
- 大人:400円
- 大学生:300円
……本気ですか?
これだけの内容で、この価格。
採算度外視という言葉が、ここまで清々しく使える場所も珍しい。
京都大学の「知」が、開かれている
ここで展示されているのは、
単なるモノではありません。
**京都大学が積み上げてきた「知のアーカイブ」**そのものです。
それを、専門家だけでなく、
一般の市民にも、学生にも、ほとんど無償に近い形で差し出している。
こういうところに、
「大学とは何か」
「研究とは誰のものか」
という問いに対する、一つの答えを見る気がしました。
昔はなかった。
でも、今あって本当に良かった。
母校は変わったけれど、
この場所に流れている知への誠実さだけは、
確かに、京大のままでした。
30年ぶりの母校で、まず言葉を失った—「ここ、どこ?」となった京都大学再訪記
同窓の家族と連れ立って、何十年ぶりかに母校・京都大学を訪れました。
懐かしさに胸を膨らませ、正門をくぐった、その瞬間。
私たちは思わず顔を見合わせました。
「……タテカンが、ない。」
タテカンのない京大?
立て看板、通称「タテカン」。
京大をご存じの方なら、一度は目にしたことがあるはずです。
サークルの主張、政治的スローガン、時に哲学的、時に悪ふざけ。
玉石混交ながら、あれは確かに「京大の風景」でした。
それが、跡形もない。
どうやら景観や治安悪化を重く見た当局が、相当徹底した形で整理・撤去したようです。
結果、構内は驚くほど整然として、美しい。
けれど同時に、
「あの雑然とした自由の匂い」は、確実に遠くなっていました。
スクラップアンドビルド、ここまでとは
歩みを進めるほど、既視感は薄れていきます。
「ここ、どこ?」
思わず口をついたのも無理はありません。
新しい建物が次々と現れ、30年前の記憶がことごとく上書きされていく。
潔いほどのスクラップアンドビルド。
その成果は確かで、緑が多く、明るく、いかにも**“賢そうな大学”**に生まれ変わっていました。
良くも悪くも、もはや「別の大学」です。
おおらかだった時間の名残
かつては、土日でもふらりと入れた建物。
用事もないのに研究棟に入り、掲示板を眺め、階段に腰掛けて話をした、あの空気。
「懐かしいね」と言いながら入ろうとした私たちを迎えたのは、
無言の施錠でした。
防犯上、もっともな判断。
合理的で、現代的。
それでも、あの頃の「大学という名の大きな居場所」を知る身には、少しだけ寂しい。
母校は、記憶の中にしかない
変わったのは、大学だけではありません。
私たち自身が、30年の歳月を生きてきたのです。
「あの京大」は、
建物でも、タテカンでもなく、
記憶の中にしか存在しない風景になっていました。
それでも、確かにここは母校。
別の顔を持ちながら、時代に合わせて生き延びてきた場所。
懐かしさと違和感が同時に押し寄せる、不思議な再訪。
「ここ、どこ?」と思えたこと自体が、
この大学と深く関わっていた証なのかもしれません。
外見は古家、中はフランス—聖護院・吉田東通り「café jete」の朝
京都・吉田東通りを歩いていると、少し拍子抜けするほど控えめな佇まいの古家が現れます。
看板を見なければ、ただの町家と見過ごしてしまいそうな外観。
扉を開けた瞬間、空気が変わりました。
そこには、まるでフランスの古き良きカフェ。
使い込まれた家具、やわらかな色調、時間がゆっくりと沈殿しているような空間。
外の京都の朝とは、きれいに切り離された世界が広がっています。
モーニングが、静かに心をほどく
モーニングは驚くほどシンプル。
けれど、その一つ一つが「丁寧」の極みです。
パンは、言葉を選ばずに言うなら絶品。
表面は香ばしく、中はしっとり。
添えられたバターが自然に溶けて、余計な説明など要りません。
ゆで卵は、割ると黄身がとろり。
半熟、しかも熱々。
この「ちゃんと熱い」という当たり前が、案外、外では得難い。
ピアノ曲と、余白の時間
店内に流れているのは、静かなピアノ曲。
主張しすぎず、沈黙を壊さない音量で、
自分の内側の呼吸を思い出させてくれます。
スマートフォンを伏せ、
考え事も一度脇へ置き、
ただコーヒーを口に運ぶ。
「何かを得に来た」のではなく、
自分を取り戻しに来た、
そんな朝の使い方が、ここでは自然にできます。
見つけてしまった場所
静かで、落ち着いていて、気取らない。
それでいて確かな美意識がある。
観光のためのカフェではなく、
日常の延長線上に、そっと置かれた逃げ場。
聖護院に、
静かに自分を取り戻せる場所を見つけました。
こういう一軒があるだけで、
街との距離感が、少し優しくなります。
















