小池 誠のブログ

小池 誠のブログ

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 母は2019(令和元)年12月23日午前2時30分に永眠しました。享年95歳でした。

 病気時の入院以外はほとんど自宅で過ごし、最後は3人の子供に見守られながらその生涯を眠るように終えました。

 

 私の記憶が残るようになってから亡くなるまでの母をよく知っているだけに、母の顔や頭をさすりながら「本当にご苦労様でした。本当にありがとうございました」と枕元で幾度もつぶやきました。

 

 母は長野県南部の伊那谷を流れる天竜川を下った、右岸の阿南町西條の大きな造り酒屋の長女として大正13年5月27日に生まれました。

 祖母は、母が2歳の時、妹を出産した直後、病んでいた腎臓が悪化して亡くなりました。母は隠居している曾(ひい)おばあちゃんに育ててもらいました。人間的に良く出来た優しい曾おばあちゃんだったそうです。その曾おばあちゃんも母が14才の時に亡くなりました。若い内に実母と親代わりの曾おばあちゃんを亡くしたので悲しい思いを沢山したらしく、生前その話を何度か聞いた事があります。

 

 母は生まれつき芸術の才に優れていていろいろな物を作ったり、文章を書く事が好きでしたが、母の青春時代は第二次世界大戦の戦前、戦中、戦後の激動期で、時代に翻弄され、したい事も許されず、自分の意志とは関係なく当時の国策に従い勤労奉仕等をして過ごしたとのこと。敗戦後日本情勢が落ち着きだした昭和23年、食糧難ということもあり、親の薦めで山村の農家の父の元に嫁いできました。

 大きな造り酒屋のお嬢様が農地解放後の山村の元地主の農家に嫁ぎ、慣れないお百姓の仕事と、古いしきたりの残る家で厳しい姑に絶対服従の暮らしで、3人の子供を育て、長男夫婦と暮らし、価値観が目まぐるしく変わる中、与えられた境遇の中で精一杯生きました。

 

 私が子供の頃の両親の記憶は、学校から帰ってくる道々よく見かけた、田畑を黙ってもくもくと耕す二人の姿と、夕食時食事の支度をする母の後ろ姿、私を叱る時の父の恐ろしい顔くらいで、朝起きた時も夜寝る時も、そこで両親の姿を見かけたことはほとんどありませんでした。

 

 冬の農閑期は農作物が作れず収入が無いため、父が冬期でも作れるキノコ栽培を始めたのですが、密閉した培養室の暖房の為、当時使用した豆炭・練炭の影響で40歳からリウマチになり、痛みと不自由な体に耐えながらのお百姓生活は本当に辛かったと思います。

 当時リウマチの薬はなく、痛みを抑える為にお灸をしてから農作業に出掛ける母をよく見かけました。

 (※当時この地区で初期にキノコ栽培を始めた人達は、密閉した培養室の暖房に豆炭・練炭を使用しました。培養室での作業は殆どがその家の奥さんがしました。因果関係ははっきり分かっていませんが、半分以上の方がリウマチになりました。皆その事にすぐ気が付き、換気扇を付け電気暖房にしましたが、リウマチになってしまった方達は一生リウマチに苦しめられたようです)

 

 そのような生活の中で、生活を少しでも良くしようと夜なべをしてあれやこれやと工夫をし、黙ってコツコツ努力する母の姿をずっと見て育ちました。

 

 母は小さい時に母親を亡くし悲しい思いをしたので、3人の子供には不自由なく育ってもらいたいという強い思いがあり、必死で働いたと生前聞いた事があります。そのため、好きな芸術活動は全くと言っていい程出来ませんでした。

 しかし、やむにやまれぬ思いがあったのでしょう。家事や仕事の合間に少しでも時間が出来ると、その思いをノートや広告の裏に書いていました。

 

 余裕が出来た時は、すでに体は老いて芸術の道どころではなくなっていました。

 

 私は若くして病気になり障害の身となり、まともに働くことが出来ませんでしたが、母から譲り受けた少々の芸術の才で、その道で何とか生活ができるようになりました。それも、闘病時代に両親が必死な思いで支えてくれたお陰と思っています。

 もし、私がこのような病気にならず、独立して家庭を持ち、日々の生活に追われていたら、そのまま両親の陰の愛情に気が付かずに済んだかもしれません。

 

 そんな両親の見えない必死な深い愛情のお陰で、私たち兄弟三人は、何不自由することなくすくすくと育ち、上の学校まで行かせてもらいました。

 当時山村の農家で子供3人を上の学校まで出すことは並大抵の苦労ではなかったと思います。

 

 自分が少しばかり表現する立場になり、家と子供達の為に自分のしたい事もせずに一生を終えた母の気持ちを思うと、とても切なく申し訳ない気持ちになります。

 もし母が現代に生まれていれば、きっと好きな世界で活躍していたに違いないと思います。

 

 私は18歳で骨肉腫になりました。当時は薬もなく致命的な難病でした。それまで朝から晩まで働く姿しか見なかった両親ですが、私が病気になってからは父と母は必死で私の事を守ってくれました。あんなに厳しかった父が、大変な農作業が終わると毎日のように病院に私の顔を見に来てくれ「頑張れ」と励ましてくれました。2度目の再発の時は、私の骨肉腫に効くという薬がアメリカで開発され治験が始まっていて、医師の薦めもあり日本ではまだ保険適用になっていなかったその高価な薬を購入してくれました。その薬を打ったお陰で延命が出来、3度目の再発の時は日本でも保険適用の良い薬が出来ていて、その薬のお陰で完治することができました。

 あの時、父が大金を出してアメリカの治験薬を購入してくれなかったら今の私はなかったと思います。

 当時山村のお百姓さんが保険の利かない高価な薬を購入することは本当に大変な事だったと思います。

 

 私達が子供の頃の父は、毎日のように勉強や体の鍛錬、質素倹約を私達に強いた、ただ怖いだけの存在でしたが、今思うと父は本当の愛情や、厳しい世の中をちゃんと生きて行くということがどうゆう事なのか、また苦労して働いて得たお金の使い方等を良く知っていたのだと思います。

 

 私は18歳で骨肉腫になり、普通に育っていれば殆ど経験しないような悲しみ、辛い痛み、死の恐怖、生きる事の大変さ等を嫌というほど経験し思い知らされ、両親が肉体を酷使して汗水流して働く苦労や捨て身の愛情のありがたさを身をもってしみじみ感じました。

 

 戦後の日本の世界的な繁栄、そして今の私達の平和で豊な生活も、あの言葉では語り尽くせない悲惨な戦争を体験し、敗戦の苦汁をなめ、どん底の日本を必死の思いで立て直してくれた両親の世代のお陰なのです。今その恩恵を受けて生きていられる私たちは感謝の気持ちを決して忘れてはいけないと思うのです。

 

 宇宙・生命の真理や心を見つめる時、一時の栄華に溺れ、目先の快楽や欲望のまま生きる生命(いのち)は、その時は良くても、長い目でみれば自ら出した錆でどこかでつまずくなり衰退してしまうでしょう。

 この宇宙で、地球上で生き延びるということは平穏な時は良いですが、いろいろな出来事が起こる宇宙や地球では長い目で見るとそんなに生やさしいことではないと思います。これは、宇宙・生命の真理のような気がします。

 

 母は74歳の時、1998(平成10)年6月から私の新築した作業場兼住宅で一緒に暮らすようになりました。

 数年はしたい事をして、のんびりと生活が出来たようですが、リウマチが原因で体が段々辛くなり、まもなく車椅子の生活になりました。歩けなくなると少しずつ認知症が入り2009年85歳の時、入浴時に椅子に座り損ねて尻もちをつき、背骨の圧迫骨折から介護生活になりました。

 

 最後の10年はほとんどベッド上で不自由な生活でした。私が介護をしてなんとか生活が出来ました。回りの方達からは、「お母さんは幸せですね」と声を掛けられたようですが、不自由になり思うように動けない事がとても悲しいようでした。

 母はよく「また良くなっていろいろしたいねえ」と盛んに言っていました。母はいろいろな物を作ったり文章を書くことが好きで、出来そうもない事も工夫と努力で乗り越えて来た人です。そのような人が、ベッド上で不自由な体で何も出来ず生き長らえる事はとても辛く悲しかったと思います。

 本当は死ぬまでいろいろな物を思う存分作ったり文章を書いたりしていたかったのだと思います。

 自分が少しばかり何かを作ったり表現する立場になり、それが生き甲斐になり生きていると、母の辛い気持ちが身に染みて分かりました。人に会うと笑顔でいましたが、ときどき目を閉じて何かをじっと我慢している顔はとても辛く悲しそうで、私はその表情を見ると胸がとても苦しくなりました。

 

 それでも母の笑顔や温もりは、若い時の生死の闘病時代に私を必死で守ってくれた命の恩人の愛情の笑顔であり温もりであり、産みの親のものであり、何物にも代えられない私の宝物でした。

 母の笑顔と温もりに触れることは私の生き甲斐にもなり、1日でも長く共に生きたくて、その事を母に告げ頑張って生きてもらいました。

 

 最後の4ヶ月は担当医から「老衰によるターミナルケア(終末医療・看護・介護)状態です」と告知されました。

 免疫能力が落ち、たびたび誤嚥性肺炎や感染症、内蔵に炎症が起きて入院しました。

 母は入院が大嫌いでした。血管が細いので点滴の針がなかなか入らず、体中が青くなっていました

 

 担当医と話し合い、最後は眠るように行かせて上げるのが理想ということで、食欲がある内は、病気になったら母にとって一番良い方法で治療をし、食欲がなくなり食べられなくなったら過度な医療行為はせず、最後は自宅で眠るように行かせてあげられるよう最善を尽くす。そして自宅に戻ったら最後まで病院が出来るだけバックアップするということで話ができました。

 

 いよいよ食べられなくなり1週間前に担当医と最後の面談がありました。

 自分の思っていることをちゃんと伝える為に、伝えたい事をメモして担当医に渡しました。

「正直、私としては母に一日でも長生きしてもらいたい。自宅で一日でも長く共に暮らしたい。血管への点滴が駄目なら、皮下点滴でも良いので続けて欲しい」

 と。そしてもう1点、

「母の立場に立った時、どうゆう状態が一番幸せですか?」

 と・・・。

 

 信頼している担当医から改めて

「老衰です。これ以上望む事は貴方の自己満足です。自己満足は捨ててください」 

 と言われました。 
「今の状態では点滴はしない。飲み薬は止める。飲食はしないのが、眠るように行かせてあげる最善の方法です。あなたの自己満足は捨てること。自己満足はかえってお母さんを苦しめる原因になります。一番怖いのが窒息です。最優先は母を理想的な形で行かせてあげることです」

 と。

 私は、先生の言葉を聞いて心の整理ができ、先生の指示に従う事にしました。

 

 母と共に家に帰って来ました。母はいつも使っているベッドに横になると薄目を開け回りを見渡していました。自宅に戻った事が分かったようでした。

 

 何もせず飲まず食わずの状態を見るのは何とも忍びないものがありました。私はそれでも1日でも長く生きて欲しいと願いました。そう思い蜂蜜を溶いたお湯を綿棒に湿らせて口の中に入れ少しでも飲んでもらおうとしました。そしたら少しむせて苦しいようでした。

 私はハッとしました。下手をすると窒息させてしまう! 愚かでした。

 それからは何も上げないよう、先生の指示に従い3食時に綿棒をぬらして口内を拭いて清潔にしてあげるだけにしました。

 穏やかな顔をしていびきをかいて寝ている母の顔を見ていると、これで良いのだなと思いました。

 

 無治療になり飲まず食わずになって約10日目、家に戻って6日目に母は眠るように旅立ちました。

 

 18歳の時の骨肉腫で左足大腿部より切断して義足になり、その後両肺の手術をして弱い体になり、一人で10年の介護生活は本当に大変でしたが、父・母から学び受け継いだ大変な事も工夫と努力で乗り越え前向きに生きる心根のお陰で、大変な介護も諦めず工夫と努力で乗り超え自宅で静かに見送る事が出来ました。

 

 母の長い介護生活からいろいろな事を学びました。

 

 皆さんのお陰で10年に及ぶ母の介護ができたこと。介護制度は上手く利用すること。何事も上手く進めるには人間関係は大事で上手くする。分からない事はまず素直に謙虚に教わる。その後に自分に合った方法に改良する。理論と現場での実践の両方が大事。感謝と謙虚さは大事で人間関係を上手くする。自己満足ではなく本人の立場に立って介護してあげる。たまには介護制度を利用して休みをしっかり取り、心の整理と次ぎをより良くする為の知識と知恵を身に付けることが必要。無愛想な顔より自然な笑顔が相手を幸せな気持ちさせる。・・・その他いろいろ。

 私は本当に出来が悪い人間ですが、若い時の10年に及ぶ生死の闘病生活と今回の10年に及ぶ母の介護生活を経験したお陰で少しだけまともな人間になれた気がします。

 

 人の一生はあっという間に終わります。生老病死、仕事、家庭、事故、災害、その時々の人間関係、喜怒哀楽の感情等は過ぎてしまえば一瞬の出来事です。しかし、その一瞬の出来事がその人の一生を大きく左右します。よりよき人生にするにも、つまらない人生にするにも、その人のその時々の心、言動で変わって行きます。

 

 永遠で不変な宇宙・生命の真理・心、真我を知り、感じ実践することは、より充実した人生に導いてくれます。できる限りそれらに添いながら、感じながら、共に生きられればと願います。

 人類が生み出したすぐれた宗教や思想・哲学は、永遠で不変な宇宙・生命の真理・心をそれぞれの形に変えて現しているのだと思います。自分に合った宗教や思想・哲学から学ぶのもよいことだと思います。

 

 人間は本当に出来の悪い生命ですが、宇宙・生命の真理・心、真我を少しでも知り、感じながら生きられれば、歩められれば少しずつ良い方向に向かうと思います。今後私達の未来を良い方に導くも、悪い方に導くも私達の心、人間性次第です。

 

 人類はこの数千年で科学技術はかなり進化し生活はとても便利になりましたが、心、人間性は全くと言っていい程変わっていない気がします。

 生まれ持っての本能、DNAとその人が生まれてからの経験と知識・知恵等が心、人間性を形成します。経験と知識・知恵等が浅いと現代の私達でも数千年前の豊かな人格者より心、人間性は劣ります。今も相変わらず恨(うら)み、妬(ねた)み、僻(ひが)み、いじめ等があり復讐だの仕返しだのと争いを繰り返しています。それをしているといずれ自分にも返って来てくるし、憎悪(ぞうお)と復讐・争いの繰り返しです。前に進まないどころか自分のしたいことも出来なくなります。一生は短くそれだけで終わってしまいます。知的生命として有意義な人生が送れません。

 心、人間性そのものが進化しなければ人類は本当の意味で次ぎの世界に行けないような気がします。

 

 私は今後もっと宇宙・生命の真理・心、真我を知り、感じそれらを表現できる作家になりたいと切に願います。そして次ぎの未来、世界に向け一石を投じられ、本当の意味で少しでも役に立つ人間になりたいと切に願っています。

 

 その為にも父や母の死を良い形で受け入れ、引き継ぎ、死ぬまで諦めることなく、一層いろいろ経験し、工夫と努力を積み重ねてより良い物を作り上げてゆきたいと心の底から願っています。