正義は対立する双方にあります。
敵だ味方だと言っても、それぞれがそれぞれの正義のために戦っているという点では同じ立場です。
何が正しく何が正しくないかという事は、究極的には争いが終わってみないと解りません。
何を言いたいかというと、結局は戦いに勝った方が正義で負けた方が悪という位置づけになってしまうからです。
そして、その判断が正しいかどうかは更に時間が経って、その勝った方の治世の中で国民生活がどうだったかという検証をしてみないと解らないことです。
例えば、東京裁判でマイノリティの裁判官意見としてインドのパル判事が勝者が敗者を裁くこの裁判は正義ではないという意見を表明しています(パル判決書という本が講談社学術文庫から出版されています。ただ、ものすごく大部の本なので読み切るのは大変です。)
誰が見ても、非戦闘員を対象として原爆を落としたアメリカの行為は絶対に許されないし、戦争の結果が逆だったとしたらアメリカの戦争責任は大変なものになっていたでしょう。
それが単に戦争に勝った方だからという理由で責任を問われないというのはとてもおかしいことです。
僕は何も戦前の軍国主義を是とするものではありませんが、もしも日本が戦争に勝っていたと仮定すると全く異なった判断がなされていたであろうことは想像に難くありません。
だから僕は戦争責任という言葉を使う事は反対です。
戦争責任は戦った双方にあると思うからです。
自衛のための戦争だったから戦争責任は相手にあるという考えもありますが、自衛のための戦争というモノも、所詮勝った方が主張するだけのものです。
あえて言うと、誤解されるでしょうがあるのは『敗戦責任』でしょう。
とにかく戦争責任は、一般の人々を塗炭の苦しみに追い込んだという意味で、戦争に加担した国全てが負うべきものだと思います。
唐突ですが、、、、
しかし、今回はビンラディン殺害は一寸どうでしょうかねえ。
よその国にいきなりヘリで乗り込んで人を殺してくるなんて、原爆投下を戦争終結の為という美名のもとに行ったアメリカの面目躍如ですね。
テロそのものじゃないですか。
これでまたテロによる報復がありますよね。
だって、彼らは彼らなりの正義があるわけですから、アメリカは絶対に悪でしょう。
悪を叩くのは正義ですからね。