浦賀引揚船の歴史はなぜ語り継がれるのか | 神奈川県議会議員 永井まさと オフィシャルブログ

浦賀引揚船の歴史はなぜ語り継がれるのか

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浦賀引揚船パネル展〜戦後浦賀で起きた悲劇〜」が郷土資料館および浦賀コミュニティセンターで行われています。

 

動画でもお話ししていますのでご覧ください。

 

 

私も合間を見てお邪魔させていただきました。

 

主催の中島三郎助と遊ぶ会の安齊さんから基本的な部分の説明を受けることができました。

 

浦賀の引き揚げ船の第一陣は昭和20年10月7日に入港した氷川丸でした。アメリカ本土中部方面よりの一般邦人が主だったそうですが、その後南方諸島からの引揚船が続きました。この最初の入港から翌年の3月までを前期として247,214人の引揚者が帰還しました。その多くがマラリアや栄養失調を患っており、担架でおろされる方や亡くなる方もいたそうです。

 

昭和21年2月20日に昭和天皇が浦賀引揚援護局、久里浜援護所、鴨居援護所、馬堀援護所を御巡覧された際、「中部太平洋諸島及南方諸地区より引揚たる者には、極めて憂慮すべき状態の者が多くその殆ど7割程度が栄養失調の症状を呈し、また5割以上のマラリヤ症を呈している状態」「尚、本局の援護所及関係病院において死亡せる者は876名で御座います」と報告されているそうです。

 

私の地元の鴨居では鴨居援護所が設置されていました。その跡地(銀銭浴場近く)には天皇行幸の地の記念碑が建立されています。

 

 

後期(昭和21年4月〜22年3月)は引揚者数は317,410人に上りました。当時、中国・広東ではコレラが流行しており、現地で感染した引揚者により、航海中に他の引揚者に感染し発病するという事案が発生しました。これを受けて、「コレラ発生地から出航またはコレラ患者のいる引揚船はすべて浦賀検疫所にて検疫を行うべし」というGHQ指令が出されました。これによってコレラ船は全て浦賀に回航することになったのです。

 

 

引揚者というと、13年間に渡り66万人の引揚者を受け入れた舞鶴が有名ですが、浦賀は2年間で56万人を受け入れておりコレラ船が全て浦賀に回航されたことを考えると非常に困難を極めた復員業務であったことは想像に難くないと思います。

 

以上の内容は写真とともにパネル4枚分の内容でありますが、パネルは全部で20枚以上あり、さらに当時の衣服やたろうちゃんの切り絵コーナー、また浦賀の引揚船の歴史がよくわかる動画が見られるコーナーなど充実した展示が行われています。

 

 

 

戦争の犠牲は当然のことだが、戦争が終わった後も長い間大勢の人たちが苦しみ、大変な思いをする。平和がいかに尊いことで、平和を守ることがいかに大事なことか。そうしたことを前途ある子どもたちに教えたいと前出の安齊さんは言います。

 

今日明日は17時まで、最終日の2月6日は15時まで開催しているということですので、お近くの方はぜひご覧になってはいかがでしょうか。

 

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