ごめんなさいという選択 ― 自分自身を許すために

自分自身が悔いていること。
自責の念を感じていること。

そのことについて、わたしは考えていました。

 

森はますます深くなり、
難所をどんどん超え、標高も上がっていきます。

 

渓谷の石は、奇岩、巨石といった迫力を増していきました。

 

その風景のなかで、わたしはあらためて、
ひとつの確信に立ち返っていました。

 

 

――すべては「鏡」。

土地のアーススターに意識を向け、
もしそこに何らかの働きかけを行いたいのであれば、

わたしたちはまず、
ひとりひとりの内側にある
「そこにレゾナンス(共鳴)しているもの」に
働きかける必要があります。

上にあるごとく下にあり、
外にあるがごとく内側にある。

すべての出来事は、
わたしたちの内側の反映であるからです。

 

 

 


わたし自身の「罪悪感」や「後悔」にも、
意識を向けていきました。

 

 

 


今回の旅は、「ことのはじまり」に書いたように、
安竹家のご長男であるモトさんの仙骨びらきを
きっかけとして始まりました。

 

モトさんが五十二歳を過ごす最後の二日間。


そして同月末には、生涯を捧げてこられた家業から
卒業されるという、大きな節目のタイミング。

 

謎の深いご先祖さまの土地。
そこには「水」「ダム」「縄文」「諏訪」といった、
この数年、わたしが関わり続けてきた
ワークのすべてが並んでいました。

 

表面上は、
「主役はモトさんとご一家」
そんなふうに見えたかもしれません。

 

 

でも、参加者のみなさん一人ひとりが、
「じぶんごと」として
この旅に呼ばれてきていることを、
わたしは感じていました。

 

 

外側で起こることはすべて、
自分自身の魂からのギフトである。

土地のことでもあり、
家のことでもあり、
友人のことであり、

同時に、わたし自身のことであり、
「わたしたち」のものがたりなのです。

 


 

 

そして今回のテーマは、
「ごめんなさい」という看板によって、
すでに立ち上がっていました。

 

 

「ごめんなさい」と謝る。
ということについて、わたしは考えました。

するとそこに、
「謝罪することを自分に許していない」
という強い思い――
信じ込みのようなものが
存在していることに気づいたのです。

後悔があまりにも大きいとき。
取り返しがつかない、という嘆きが強すぎるとき。

「あやまって済むことではない」

という強い怒り、
自分自身への怒り、自責の念が
同時に湧き起こります。

 

 

その感情が大きいとき、
わたしたちは
「謝罪することを自分に許すか、許さないか」
という選択の前に立っています。

 

そして、
「許されるような問題ではない」
「取り返しがつかない」
という信念のもとで、

謝罪する、という選択そのものを
見失ってしまうのです。

 

 

だからこそ、ここでわたしたちは、
「ごめんなさい」と素直に謝る、
という選択肢を、
自分自身に与えにきたのだ――
わたしは、そう感じました。

 

 

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つづく